晩夏。孤独な放浪の終わり、旅の始まり




 アメジストのような鮮やかな紫の夕焼けがサンクトペテルブルクの街を覆う。街中を網の目のように流れる運河の表面は波立つごとに色の違う二つの太陽の光を反射した。赤と青の二つの太陽は重なり合うように街の果てに沈もうとしていた。尖塔や、工業地区に組まれた鉄骨が黒いシルエットとなって浮かび上がる。その様子を十四歳の武田鉄男は、あの奇妙な形の屋根も有名な血の上の救世主教会を臨む橋の上から眺めた。水色と金に彩られた、ケーキの上のホイップクリームのような、ゲームに登場するスライムのような形の屋根は、毒々しいほどの紫色に染まっている。
 バリアンの赤い太陽。
 アストラルの青い太陽。
 この二つが同時期に沈むのは一一七日ぶりだ。それは金星の周期と同じだというニュースを聞いた。それがどういう意味を持つのか鉄男には分からないが意味深で不穏な気配は感じる。この世界にはもう金色の太陽は存在しない。
 一年前、初めて紫色の夕焼けが広がったあの日、この世界から太陽は消えた。それは鉄男の親友である九十九遊馬を取り巻く奇妙な戦いの終焉を意味していた。戦いは終わった、が、それは敗北を意味するものではない。十三歳の鉄男は戦争に勝者が存在しないことを目の前で目撃し、身に染みて知ったのだった。
 太陽は…、この世界の太陽だった九十九遊馬は消えた。遊馬は戦いも、この世界も、この世界に存在する家族友人何もかもを代償にたった一つの願いを叶えた。アストラルを助ける、という願いを。それはアストラル自身の存在意義でもあるアストラルが救おうとしていたアストラル世界の存在さえも放棄したものであり、遊馬とアストラルはこの世界からもアストラル世界からも消えてしまったのだ。
 アストラル、バリアン、そして生まれ育ち思い出の詰まったこの人間世界も棄てた。見捨てた。それが代償だった。アストラル一人を選ぶために払わなければならなかった代償。三つの世界も、その世界に生きるあらゆる命も、遊馬とアストラル二人の永遠のために捧げられた。二人の姿は赤と青の光となって螺旋を描きこの世から、この宇宙から消え、重なった人間世界と二つの異世界は形を保つことができず崩壊を始めた。
 この紫色の夕焼けを最初に観たのは崩壊するハートランドシティ。二度目はデリー。三度目はイスタンブール。住む街を失った鉄男は世界を放浪しつづける。
 アストラル、バリアン、人間世界が完全に重なった時、大規模な破壊が起こると世界の科学者が予測している。遊馬とアストラルが宇宙の壁を破る際の衝撃でハートランドシティは崩壊し、真っ白な砂漠と成り果てた。命からがら逃げ出した鉄男が行く先々で見たのは暴動や自暴自棄の争い、なんとかして助かりたいとどこへともなく車を走らせる列、そして人の消えたゴーストタウン。あれから一年、まだ崩壊していない、まだ今日があるという日常の中で人々の生活は続いている。
 今、夏の終わりのこの街は温暖な極東の地で生まれた少年の身には冷たい氷点下一度。しかしそれでも暖かい方なのだから、これからこの国がどんな季節に突入してゆくか知れる。
 が、昔から栄えてきた都市で、人の数も多い。サンクトペテルブルクはまだ人間の住む街としての機能を保っていた。運河を挟む建物にはぽつぽつと明かりが灯り、川面に反射していた。電気の通っている地域は世界的にも少ない。世界の崩壊はエネルギー資源をまず直撃した。あれはきっとランプや暖炉の明かりだろう。それでも灯るだけ贅沢だ。
 鉄男は橋の上からその様子を眺め、欄干にもたれかかって溜息をついた。息は紫色の冷えた空気の中、白く吐き出される。
「何をしている」
 頭上から声が聞こえる。
「凍えてしまうぞ。それともとうとう諦めたか?」
「…何を」
 返事をしてやると、声は嬉しそうに言う。
「決まっているではないか。皇の鍵とホープをオレに渡し朽ち果てる覚悟をしたかということだ」
「馬鹿言え」
 鉄男は欄干から離れると歩き出す。
「今日の宿を探してただけだ」
「ふん」
 嘲笑が耳元を掠める。黒い影が石畳の橋の上を這い、どろりとした形となって鉄男の前に立ち塞がる。
「大人しく冷凍ポークにされたらどうだ?」
 細くしなやかな漆黒の肢体。一糸まとわぬ裸体は夕暮れ、氷点下一度の街中ではこちらが震えてしまう。身体中に描かれたアストラル世界の太陽と同じ色の紋様。顔を禍々しく彩る赤い模様。片目は夜のように深く、もう片目は懐かしい朝日のように輝く金色。
 鉄男とは浅からぬ因縁を持つナンバーズ、ブラック・ミスト。
 しかし本人はナンバーズ96だと名乗る。ブラック・ミストは分身でありしもべであるモンスターの名だと。だから鉄男も一応、ナンバーズ96と呼んでやる。今ではもう意味のなくなったその名を。
 ナンバーズ。世界中に残された九十九枚のカードはもはやデュエルでもその異常な力を発揮することはない、ただのカードとなってしまった。何故ならナンバーズのオリジナルであるアストラルが、遊馬の相棒だったあのアストラルが消えてしまったのだ。既にその存在に意味はない。
 鉄男はポケットに手を突っ込んで広い橋の反対側を見渡した。宿のない男が目の前の空き缶を摘み上げ、どこへともなく歩いてゆく。コートの下で新聞紙がガサガサと音を立てた。あれで寒さをしのぐのだろうか。
「おい、ポーク」
 頭上から見下ろし、かつてだったら食ってかかったような名前で呼ばれる。だがそんな悪口も慣れたものだ。鉄男は相手にすることなく傍らを通り過ぎる。するとナンバーズ96は黙ってついてくるのだ。こいつはそうだ。遊馬とアストラルが消え、意識を持った唯一のナンバーズとして、ただのカードに戻ることもできず地上に残されたあの日から鉄男につきまとい、離れることはない。とうとうユーラシア大陸を一周したここまでついてきた。まるでかつての遊馬とアストラルのように離れない。
 相棒と呼ぶには好きになれないヤツだが。そう思い見上げると、ナンバーズ96は白い歯を剥き出しにして笑った。
 運河沿いの通りにはホテルが軒を連ねているが、どこも明かりに乏しい。玄関のランプに辛うじて営業中の気配が感じられた。今やどんなホテルも、たとえ目抜き通りのビルだろうとも観光客が安心して泊まれる場所ではない。しかし鉄男はもう一年の間各国を放浪し、少年ではあるが素人ではなかった。また彼にはデュエルのそれだけではない腕っ節もあったから。とは言えリアルな暴力を手に入れたのはハートランドシティを出た後だが。
 フロントの明かりもやはりランプで、痩せた老人が受付をしてくれた。ロビーのソファには何人かの老人が出ていて、上着の前をかき合わせて低い声でおしゃべりもしている。このホテルの部屋の半分は近づく世界の崩壊に家をなくした老人達の住み処だった。鉄男は鍵を受け取って部屋に向かった。ロビーを横切る一瞬、老人達のお喋りがやんで注目されるのを感じた。それはもう別段心地の悪いものではなかった。毎日のように受ける視線だ。今更。
 鉄男は動かないだろうエレベーターを無視して真っ暗な階段をのぼる。闇がざわざわと低く言葉にならない何かを呟き、掌が触れる手摺りは液体のようなそれにぬめった。ナンバーズ96のいつもの悪戯だ。これもまた今更だった。
 鍵を開け部屋に入った途端に闇は押し寄せ、鉄男をベッドに押し倒す。同年代の中では巨体の部類であり、それまで脂肪だったものの幾分かが筋肉に変わって重くなった身体だが、暗闇はものともしない。
「…よせよ」
 伸ばした腕はあっという間に触手に絡め取られ、指先にぬるりとしたものが触れた。ねぶるようなキスだった。
「96…」
 蠢く無数の触手は無理矢理に上着を脱がせ器用にシャツのボタンを外し、直接鉄男の身体に触れようとする。こうなるともう抗っても無駄だった。ナンバーズ96は気が済むまでこれをやめない。
 セックス、ではないだろう。裸にされた鉄男は自分に覆い被さるものの正体を正確に見たことがない。そこにあるのはぬめる闇だ。あの美しい肢体を――その気になれば鉄男が劣情を抱くに十分すぎる魅力を持った肢体であるのにその形を保つことなく、不定形の闇はゼリーのように鉄男の身体を覆う。ナンバーズ96は遊馬の気配を探している。この世に残された遊馬の気配を。鉄男の身体に残った遊馬との記憶を。
 ナンバーズ96が欲しいのは鉄男ではない、遊馬なのだ。遊馬とハイタッチをした掌。手指やDパッドを装着した腕に残るデュエルの記憶。丸い瞳が見つめた遊馬の姿。この耳が聞いた遊馬の声。何でもいい。遊馬の記憶なら何でも摂取したい。ナンバーズ96は飢えている。そのため耳の穴や口からまでどろりと溶けた自分の身体を流し込んで触れようとした。なんなら脳みそに直接触って遊馬の記憶を摂取したいのかもしれない。
 それら感触は普通のセックスさえ知らなかった鉄男にとっては強すぎる刺激であり、初めて射精した時は情けなくも泣いたものだ。拒んでも尚触れられ、その感触を快楽に変換してしまった身体が反応するのを止められず自己嫌悪に陥ることもあったが…、それもとうに昔のことに思われる。今はもう、鉄男は抗いも拒みもしない。ナンバーズ96の好きにさせた。女性の身体を知る前にコアな快楽に目覚めた身体はもう元に戻せそうもないし、これがなくても溜まるものは溜まる。どうせ自分でするくらいなら…。こいつだってオレを利用してるんだ。オレがこいつを利用したって罰は当たらない。フィフティフィフティってもんだろ?
 交わりと呼べるようなものでもないが、しかし最近は相手側にも鉄男を扱っているという意識が芽生えたらしく、昂ぶるそれに不定形の身体が絡みつく。
 じわりと形が変化する。性器に触れてくるそれは細い手の指に。腹の上でどろりと溶けていた塊はほっそりとした身体に。耳元に息が吐きかけられる。それは湿って熱さえあった。そしてかすかにだが、遊馬、と囁いた。鉄男は手を伸ばす。ナンバーズ96の身体の形をなぞり尻を掴むと、引き攣った笑いが鼓膜を刺した。ぬるぬるとした太腿が快楽の中心を挟み込む。そこから果てるのは早かった。
「は……」
 は、は、と情けない声で笑っているのはナンバーズ96だった。精を吐き出しくたんと力をなくした鉄男の性器をいつまでもいじりながら笑っている。鉄男は尻を掴んでいた手を離し、ゆっくりと、飽くまで惰性であるかのようにしてナンバーズ96の細い身体を抱いた。ランプどころかマッチ一本の明かりもない、窓の外には月も星影もない暗闇の底にいたが、この一年毎夜のように自分に重なってきたナンバーズ96が初めて本来の姿で自分に触れているのをしっかりと感じていた。

 部屋がノックされ身構える。下半身を拭ってシャツのボタンを留めたばかりだった。ベッドの上には姿を隠す様子もないナンバーズ96が横たわっていた。この闇で大して見えはしないだろうが…。そうは思ったが一応上着を被せて隠した。埃が舞い、鉄男はくしゃみをした。コートの下でくすくすとナンバーズ96が笑った。
 ノックしたのはフロントにいた老人で、お茶があるから来い、という意味のことを手振りをまじえて伝えてくれた。
「彼女も、一緒、来る」
「彼女…?」
 振り返ると裸身にコートを羽織ったナンバーズ96がニヤニヤと笑いながらこちらを見ている。鉄男は溜息をつき、後で行く、と一旦ドアを閉めた。
「誤魔化し、先延ばし、誠実さのない返事だな、人間」
「嘘じゃない。行くさ」
 お茶ももらえるなら…、とブツブツ呟きながら鉄男は少ない荷物を開ける。鞄の中に入ったシャツはどれもこれも大人のサイズだが仕方ない。鉄男はそれを両手にふわりとナンバーズ96の肩にかけた。
「どうした。今度は何の戯れ事だ」
「お前も誘われてんだよ。裸のまんまじゃ行けないだろ」
 シャツのボタンを留めてやる。襟ぐりが大きく開いて細い首筋が露わになるのが青い闇の中に見えた。闇よりもなおナンバーズ96の身体は黒い。首筋に指を這わせると、ぱしっと小さな音を立ててナンバーズ96の手が払った。
 ズボンはどうしても穿かないと言うのでコートを着せてそれらしくし、ロビーに下りた。ランプの明かりが老人達の笑顔を照らし出す。サモワールは沸騰し、ちんちんと金属的な音が静かなロビーに響いていた。
 旅先での親切心には用心するようになった鉄男だが、老人達の態度には裏はなく、まだ子どもの鉄男には一番大きな茶碗を渡してくれた。それだけではなく、自分の分の砂糖まで分けてくれる。熱く甘いお茶を、鉄男は老人達と一緒になって飲んだ。
 隣に座るナンバーズ96はカップを両手で包み込みじっとしていた。そう言えば鉄男は一年も一緒にいるこいつが飲み食いをするのを見たことがない。眠るところさえ見たことがなかった。どうするのだろうと横目に見守ると、ナンバーズ96はほんの一口、お茶に口をつけた。
 老人達と鉄男は片言の英語でコミュニケーションをとった。鉄男が明日にはこの街を立つと言うとひどく残念がった。鉄男にもこの小さな集いは心地良かったが明日をも知れぬ世界で一所に留まっている訳にはいかない。お礼にもならないけど、と自分を招待してくれた痛風のフロントマンにアスピリンを渡した。近頃では薬も手に入らない、と老人は薬包を大事そうに胸ポケットに仕舞った。
 真っ暗な部屋に戻ってもお茶の熱とお喋りの余韻が鉄男の身体に残っていた。彼はそのぬくもりを抱くようにがさがさいう毛布の中に潜り込んだ。すると首筋に湿った冷たい感触。また悪戯かと、少し気分を害された鉄男は身体を起こそうとして、ふと息を止めた。
 衣擦れの音がした。背後からシャツをまとったナンバーズ96の細い身体が抱きつくのを感じた。
「…何だよ」
「何がだ」
「どういう風の吹き回しだ」
 冷たい指が腹を這う。冷たい息が首筋にかけられた。
「お前は何故笑う。何故笑っている」
「オレが?」
 笑っていただろうか。頬に触れていると、ナンバーズ96の腕が強く鉄男を抱きしめた。
 二人は黙って横になっていた。性的なものの介在しない接触は不思議な気持ちがした。あの行為こそ無意味であるはずが、更に意味も漂白されたような空白に陥った気がした。しかし悪い気分ではなかった。鉄男は今、安堵していた。
「お前はどこへ向かうつもりなのだ」
 小さな声でナンバーズ96が尋ねる。それに対し鉄男は素直に答えた。
「お前と一緒だよ」
「はぁ?」
「遊馬だ。オレだって遊馬を探してるんだ。遊馬の父ちゃんが冒険をして異世界への入口を見つけたんなら、オレだってできるかもしれない。頑張れば、今遊馬がいる場所に繋がる入口を見つけられるかもしれない」
「…………」
「オレだって遊馬に会いてえよ。あいつは大事な親友だし…、それに小鳥と約束したんだ。必ず遊馬を連れて帰ってくるって」
「あの砂漠で、人間がいつまでも生き延びられると思っているのか?」
「何だってやってみなきゃ分かんねーだろ」
 そう言ってアストラルを救い出し、この世界から消えてしまった遊馬。
「かっとビングだ」
「その言葉は気に食わんが……、そういう理由なら力を貸してやるもやぶさかではないぞ?」
 まさか協力という言葉がナンバーズ96の、この悪魔のような存在の口から出てくるとは思わなかった。鉄男は思わず笑おうとしたがそれを飲み込み、鼻から大きな息を吐いた。
「では、次はどこへ行く」
「取り敢えず船に乗る。海の向こう」
 冒険の定石だ。海を越えて、見知らぬ土地へ。テラ・インコグニタ。未踏の地。たとえそこに待つものが何だろうと。
 崩壊する世界での未知への挑戦は恐怖の連続だ。今宵のように穏やかな時間を過ごせることの方が稀であり、行く先々に待ち受けるのは暴力や理不尽の数々。しかし今、鉄男は恐怖を感じていなかった。
 ――そうかオレは…、
 鉄男は丸い腹を抱く手に自分の手を重ねた。
 ――独りじゃないのか。
 さっきは鉄男の手を振り払ったナンバーズ96が、今度は何もせずそれを受け入れた。
「…おやすみ」
「何だ?」
「寝る前の挨拶だよ。おやすみ」
「オレは睡眠など摂らない」
「オレが寝るんだ」
「人間とは不便な生き物だ」
 背中に顔が押しつけられ、笑い声が身体に直接響いた。おやすみ、とは言わなかったがナンバーズ96はいつまでも笑っていた。その振動を心地良く感じながら鉄男は暗闇の中で目を閉じた。瞼の下に広がる闇が、ゼリーのように柔らかく、そしてあたたかく鉄男を包み込んだ。






2012.6.4 わがまま、ききます。ニナさん。