模造世界のルーティン・エクスペリメンション




 目が覚めるとキッチンテーブルに横になっている。純白のテーブルクロスは真っ青に染まっていて、昨夜の惨劇の痕跡を色濃く残していた。床の上には滴る水色の水と、ナイフ。ナイフで切り分け、手掴みで食べた。本当は手で切り裂きたかったけれど、遊馬には力がなかったのだ。
 ――僕には力がない。
 遊馬はテーブルの上に起き上がり、汚れた頬を拭った。
 ――だけど、何でもできる。
 ごく間近で波の音がする。ビルが砂になって海へ崩れ落ちる。遊馬を中心とする世界はゆっくりと終わりを迎えようとしていた。■■■■■■を取り戻した自分が世界の表側にいる。そこで日常を送っている。過去の自分が■■■■■■を失ってしまったことなどすっかり忘れて。弱虫で泣き虫で何もできない自分のことを、■■■■■■を得た遊馬は覚えていないのだ。
 ――お前が覚えていなくても
 暗い瞳の奥からじんわりと滲む涙を遊馬は拭った。
 ――僕はここにいる。
 世界が終わるまで。表側の世界から完全に忘れ去られるまで。
 多分、自分が死んでしまうまで。
 この世界は■■■■■■を失った遊馬がいるからこそ存在するパラレルワールドだ。
「よお、遊馬。目が覚めたようだな」
 耳に障る声が聞こえ、振り向くと天井と壁がどろどろに溶け、その闇の中からナンバーズ96が姿を現す。
「…おはよう、偽物のアストラル」
「その呼び方はやめろと言っている。不愉快だ」
 なんなら今すぐ殺してやろうか、とナンバーズ96は触手を伸ばして遊馬の細い首に絡みつかせるが、遊馬は抗わない。
「いつものように泣き喚け。怖いと言って命乞いしろ」
「…怖いよ」
 ニヤリ、とナンバーズ96は嗤った。
「嘘を」
 触手は遊馬の首を離れ、キッチンの窓から外へ溢れ出す。何も知らない無垢な太陽の照らす崩壊寸前の世界に身を乗り出し、ナンバーズ96は振り返る。
「さあ、今日は何をして遊ぶ」
「アストラルに会いたい」
「昨夜も食っただろう」
「今日こそ殺さない。ちゃんと一緒に遊ぶんだ」
 ふん、と小さな嘲笑が聞こえる。朝日の下、ただの嘲りというには少し濁った笑みを浮かべ、まあいいだろう、と鷹揚に言うナンバーズ96はその色が真っ黒であることを除けば、造りはアストラルにそっくりだ。
 表側の世界では遊馬の相棒としていついかなる時でも傍らにいるというアストラル。
 この世界にはいない。壊れゆく世界の中心で震える遊馬の隣には誰も。
 それを憐れんでか、この黒い悪魔は遊馬の世界を訪れては何かとちょっかいを出す。何故かこいつだけは表側の世界から自由にやって来て、遊馬に干渉するのだ。あるいは鑑賞されているのかもしれない。悪魔は退屈を忌み、道化の嗤う。
「じゃあどんなシチュエーションでいく?」
「学校の…友達…」
「もう何度失敗している? しまいには初夜寸前で解体ショーまでやったのに」
 あれは傑作だった、とナンバーズ96は嗤う。あのアストラルにはちゃんと穴だって作ってやったのだぞ?
「女の子じゃなくていい。僕は友達が欲しいんだ。だから…」
「男なら殺さない、か?」
 まあ試してみるがいい。そう言った次の瞬間、ナンバーズ96の身体は黒い霧となって半分崩壊したハートランドシティを覆い尽くした。雨雲が空を覆う。遠雷が腹に響く唸りを上げ、見る間に大粒の雨が降り出した。
 遊馬はテーブルから下りると、真っ青に染まったTシャツを脱いだ。制服に着替えて学校に行こう。そこにアストラルが待っている。自分と友達になってくれるはずだ。
 しかし脱いだ服に染みた青は昨夜のアストラルの残酷な優しさを思い出させた。キッチンテーブルの上、どんなに切りつけられても、そのアストラルは怒らなかった。遊馬に食べられても、苦痛の表情さえ見せず、黙って自分を見ていた。どうしてアストラルは怒らなかったのだろう。痛い、やめてくれと言って自分に触ってくれなかったのだろう。この手を掴んでくれたら、きっとやめたのに。そうでなければ笑ってほしかった。食べられて嬉しいと言ってほしかった。テーブルの上のアストラルはただ黙って遊馬を赦しただけだ。抵抗せず、かといって愛することもせず。
「今日は大丈夫さ…」
 遊馬は呟く。
「友達になれるよ」
 もう何百回繰り返したか分からない。

 コーラのような色の雨が降っている。暗い景色の中にぼんやりと人影が見える。遊馬にとって必要のない人間は影のように存在が希薄だ。背景としてあるばかり。遊馬は人が怖い。いつ傷つけられるだろうかと恐れている。しかし人間がいなければ、遊馬はアストラルと友達になってハンバーガーショップに立ち寄ることも、コンビニで買い食いすることもできない。街中で手を繋ぐというイベントだって、本当は普通にやってみたいのだ。
 遊馬は太腿に触るひらひらとした感触に、何度か尻を押さえた。シャワーを浴び、裸でクローゼットの前に立った時、どうしようと悩んだ。綺麗な制服は目の前にあった。ここは遊馬の世界だ。望めば何でも揃う。制服に手をかけたまま、遊馬は考えた。
 もっとアストラルに好かれたい。
 だからセーラー服を着た。明里の制服を見ていたから、自分にぴったりのそれを作ることは簡単だった。と言うか、この世界に偏在するナンバーズ96が遊馬の意を汲んで作ってくれたのかもしれない。そうだ、セーラー服でいいんだ。あの学校に行くと思うから緊張するし、怖くなる。あそこには友達になれなかった人間がたくさんいる。違う学校で、全く新しい友達としてアストラルに出会おう。自分はいじめられていた九十九遊馬ではない。可愛くてアストラルに好かれる九十九遊馬だ。
 セーラー服を着たものの、遊馬も自分の身体まで女に変えることはできない。しかし十三歳の身体はまだ華奢だ。着てしまえば意外と違和感はない。女物の下着はちょっときつかったが、我慢した。
 真新しいビニールの雨傘を差し、通りを歩く。きっと通学路で出会うだろう。人の影とすれ違い、コーラ色の水たまりを避け、歩道を歩く。車道にはやはり影の自動車が走っていて、水を跳ね上げることもなく、音も立てず行き交う。漠然とした人の気配、動くものの気配はあるのに無音で、雨音だけが響く街路。その中にはっきりと見える人影は一つだけ。
 学生服の後ろ姿。同じ学校に通う友達。友達になる。友達になる。僕と友達になる…。
「あ…!」
 アストラル!と大声で呼ぶことが遊馬にはできない。何度やろうとしても勇気が出ない。チャレンジできない。今日もまた駄目で、名前を呼ぶことができないまま俯くと、足音が止まった。
「…遊馬?」
 顔を上げるとアストラルが振り向いている。自分に気づいてくれたのだ。
「あ……アストラル…」
 小さな声で呼ぶような、呟くような。
 もじもじと照れているとアストラルから近づいてくる。透明な青のビニール傘を差している。
「おはよう、遊馬」
「おはよう…」
「…どうした?」
 遊馬はもじもじとスカートの裾を引っ張る。
「あの…これ…」
 似合う?とその一言が聞けない。僕には勇気がないんだ。アストラル、それは知ってるんだろ? 言ってよ。似合うって言ってよ。可愛いって言ってよ。僕のこと、もっと好きになったでしょう?
「遊馬」
 しかしアストラルは微笑むだけだ。初期設定の微笑み。それ以上の感情は何もない。
「あの…」
 遊馬の喉は痙攣し、ひくり、と笑顔が浮かんだ。
「ア、ストラル」
「何だ」
「に…にあう?」
「似合う」
 アストラルは微笑んでいる。
「か、かわいい?」
「かわいい」
「好き」
「ああ、好きだ」
「じゃ、じゃあ…」
 遊馬の顔は感情が決壊してくしゃくしゃになりながら笑みを作る。
「愛してるって言って」
 コーラ色の雨が激しく傘を叩く。アストラルは呼吸を止めていた。ぴたりと動きを止め、未知のものにどう対したらいいのかを考えているかのようだった。そうだ、初期設定のアストラルは愛しているということがどういうことかをまだ知らないのだ。
 遊馬は傘を傾け、下からアストラルの顔を覗き込んだ。
「愛してるって言ってよ」
「あ……」
「愛してるって言わなきゃ、僕、アストラルのこと殺しちゃうから」
「………」
 アストラルが息を吸う。
「だめ…!」
 傘が飛んで歩道に落ちる。遊馬は傘を投げ捨て、アストラルの制服の胸に飛びついた。
「愛してるって言っても殺す。無理矢理言わないでよ。本当のことを言ってよ。ねえ、アストラル…!」
 するとアストラルは遊馬に向かって傘を差しかけ、囁いた。
「嘘ではない。君を愛している、遊馬」
 遊馬は表情だけでなく、身体も心も溶けそうになりながらアストラルにもたれかかった。
「えへへ…」
 だらしなく開いた口から笑いが漏れた。
「本当? アストラル、本当に…?」
「この世界の真実だ。私は君を愛しているよ」
「本当に…?」
「本当だ…」
 本当、本当、本当?と問答が繰り返される。コーラ色の雨は降り続き、水たまりが溢れ出し、いつのまにかプールほどにも水嵩が増している。溺れそうになりながら遊馬はアストラルを見上げる。もうどうすればいいのか分かってるよね、アストラル。遊馬はコーラ色の水がスカートを舞い上がらせるのも、着慣れない女物の下着が濡れて貼りつくのも、気持ち悪いではなく嬉しく感じた。ほら全部可愛いだろ、僕。
 足下から急に水が湧き上がる。二人は頭のてっぺんまでコーラのような海に呑まれる。

 辿り着いた学校の階段教室、最後尾左端の机が遊馬の指定席で、周囲には誰も座らない。遊馬はいつも一人ぼっちだった。しかし今、隣にはアストラルがいる。びしょ濡れだな、と脱いだ学ランを机の上に放る。
「君も」
 手が伸びて、たらたらと伝う水滴を拭う。細く、長い指が頬を撫でる。
「すっかり濡れて…」
 遊馬が顔を上げると、アストラルはもう遊馬から手を離すことはできない。手も、視線も、たとえ逃げるつもりはなくとも遊馬は離れることを許さない。
 しかしそこから先、何をしたらいいかをアストラルは知らない。アストラルには知識がない。彼は無知だ。遊馬のために作られたアストラルは、遊馬のことしか知らない。
 アストラル…、と遊馬は呼んだ。
「僕のこと、愛してるんだよね」
「勿論だ、遊馬」
「もう何も怖くないよね」
 すると微笑み、頷く首。今度のアストラルは上出来だ。
 遊馬は机の上にアストラルの身体を横たえる。濡れたシャツを脱がし、水色をした身体の表面に舌を這わせる。
「大丈夫、大丈夫……」
 ぶつぶつと繰り返し呟く。
「今日は僕が女の子の役をやるから、大丈夫、僕、もう何度も見てるから、やり方知ってるから、大丈夫だから…愛してるから……」
「私も愛し…」
「黙って」
 遊馬はアストラルの身体を舐めるのに集中する。身体中に不思議な模様と、深い青のストーン。本当はそういうものなしで、人間の身体らしく造ることもできた。しかし遊馬はアストラルが欲しかった。■■■■■■を知っている遊馬が独占しているアストラルと同じ、全く同じアストラルが欲しかった。自分だけのアストラル…。
 ベルトを解こうとすると、アストラルの手が止めた。遊馬が顔を上げると、アストラルの手が優しく遊馬の額から頭を撫でた。
「私が脱ごう。君の服も脱がせてあげよう」
 その言葉にじわじわと湧き上がる喜びを噛みしめながら遊馬は首を横に振った。
「ううん、僕が脱がせたい。脱がさせて。ね?」
 危なかった。ここでアストラルに拒まれたらまた殺すところだった。
 遊馬はどきどきしながらアストラルのズボンを脱がせる。しかしそこまでだった。遊馬はアストラルの膝までズボンを引きずり下ろすと、みるみる顔を歪め、泣きそうになりながらアストラルを睨んだ。アストラルは何の表情もなく自分を見つめ返す。遊馬は天井に向かって叫んだ。
「ナンバーズ96!」
 笑い声と共に天井からずるりとナンバーズ96が姿を現す。
「おやおや、どうした、遊馬」
「どうしたじゃないよ! ない…ないじゃないか!」
 するとナンバーズ96は爆笑し、自分の股間に指を這わせた。
「当然だ、遊馬、オレ達にはそんなもの最初からついていないのだから」
 遊馬は涙目になり、つるりと曲線を描くアストラルの股間を見下ろした。
「だって…だってこれじゃ…できないじゃないか…!」
「そんなに突っ込むものが欲しければ、オレの触手を生やしてやろうか」
「違う違う違う違う違う! 僕はアストラルのが欲しいんだ。アストラルだけのもので僕を一杯にしてほしいんだもん、そんなの違う、偽物じゃないか…」
 遊馬は泣き出す。ナンバーズ96は天井から逆さまにぶら下がり、笑いながら見物している。手を出すつもりはないらしい。
「ねえ、ねえ…アストラル」
 遊馬は鼻声になりながらアストラルに縋る。
「どうしてないの。生やせない?」
「何をだ…遊馬」
 僕の望んでいることが分からないなんて! 遊馬は一瞬カッとなったが、天井から見下ろすナンバーズ96が、また自分がアストラルを殺す瞬間を待ちわびているのだと気づくと、ぐっと堪えた。もう何百回もやってるんだ。僕だって…僕だって…。
 遊馬は自分が履いていた女物の下着を引きずり下ろす。びしょ濡れのそれを床の上で踏みつけ、勢いのままアストラルの膝でひっかかっていたズボンも脱がせた。
 水色の細い裸体。否、これがいつもの、普通の、本物のアストラルなのだ。
 服を着ていないのが普通なのに、服を着せた。友達になりたかったから。学校で仲良く遊んでみたかったから。普通の学校生活を送ってみたかったから。永遠に離れない僕だけの友達。でももう駄目だ。アストラルは男でも女でもない。
「ここ…本当はね…」
 遊馬はアストラルの股間を撫でる。
「こ…こういうのが生えてるの。ほら、分かる?」
 既に勃起した遊馬のものはセーラー服のスカートを押し上げている。遊馬は裾をたぐってそれを露わにした。
「ね…今からでも遅くないから、こういうの、アストラル、できない?」
「君と同じもの…?」
「同じの…こういうの…」
 既に息を荒くしながら遊馬は囁いた。アストラルは遊馬が撫でている箇所に自分も手を這わせ、遊馬と同じ物…、と呟く。下腹が蠢き、植物の芽が生えるように何かが盛り上がる。
「あ、あ……」
 遊馬は泣き笑いになりながらそれを見つめた。自分の股間でそそり立っているのと全く同じ形のものが生えてくる。水色で、まだ少し柔らかそうで。他の箇所には模様やストーンがついているのにそこだけプレーンなのが不思議でおかしい。色も他の箇所と一緒だ。
「かわいい…」
 思わず呟くとアストラルが遊馬のものに手を伸ばす。
「君の方が素敵だ」
 それは初めて聞く言葉だった。そうだ、正解以上だ。ここでオウム返しではない、彼の言葉でアストラルは遊馬に愛情を伝えたのだ。
「アストラル…」
 目の縁を越えて涙はこぼれる。
「アストラル…!」
 好き、という言葉までは辿り着かなかった。遊馬は堪えきれず勃起した自分の性器をアストラルの股に押し当てた。そこは弾力があったが遊馬を弾き返すものではない。ぐいぐいと強く押し当てると、ぶつっと突き破る感触があって遊馬の性器はアストラルの水色の身体に飲み込まれる。
「ゆうま…!」
 アストラルが声を上げる。驚いているようだ。でも驚く必要はない。これまでも何度もしてきたことじゃないか。遊馬は喘ぎながら腰を打ちつける。尻で濡れたスカートがぴしゃぴしゃと音を立てる。それさえ刺激になり、性器は突き破ったアストラルの身体を自分の形に変えるようにアストラルの中で存在を主張する。
「すごい、すごい…っ」
 遊馬は譫言のように繰り返す。今までナンバーズ96が造ってくれたアストラルはきちんとした女性の身体を持ったものもあった。そこには丁寧に穴も造ってあった。遊馬の性器に形を合わせた穴だ。しかし今遊馬が感じているのは、その時以上の快感だった。
「出る…! もう出る、出ちゃうよう、アストラル…」
「ゆうま、ゆうま」
「アストラル助けて、出ちゃう、もうイッちゃう、イッ……」
 最後まで言う暇もなかった。遊馬が射精すると、アストラルの下腹が白く濁った。
「君の…」
 アストラルがそれを見下ろし、呆然と呟く。
「アストラル…」
 遊馬はアストラルの胸にちゅうちゅうと吸いつきながら囁いた。
「ねえ、次はアストラルもイッて」
「いく?」
「出して。ここから白いの出して。次は僕の中に入れるから、僕の中で白いのいっぱい出して。アストラルは僕のだから、僕だけのものだから、僕をいっぱいにしてくれなきゃいけないんだ…!」
 遊馬はアストラルが生やしたそれを手の中に握りこみ、ギュッと掴んだ。
 ぐちゃ、と。
 音を立ててアストラルから生えたものが遊馬の手の中で潰れる。遊馬は水色の水に汚れた自分の指をしゃぶりながら、ね、次は出して、と繰り返した。
「僕だけのものって証拠を見せて」
 スカートをたくし上げ、大きく脚を広げてアストラルの上に跨がる。
「ね?」
 水色の水と唾液に濡れた指で自分の尻を弄りながら遊馬はやっと心からの笑みを浮かべた。
「僕のこと愛してるんだもん。ね、アストラル」

 階段教室をだらだらととめどなく水色の水が流れ落ちる。まるで滝のように、川のように。
 遊馬は机の上に跨がったまま、アストラルの着ていた学ランに自分の身体を擦りつけている。
「遊馬」
 すぐそばに浮遊するナンバーズ96が言ったが、遊馬は首を振って擦りつけ続けた。
「また明日、新しいのを造ればいいだろう」
「いやだ。やだよう…」
 しかし遊馬が抱きしめた学ランもどろどろと水色の水に溶ける。遊馬はとうとう机の上にぺとりとしゃがみこみ泣き出した。
「仕方ないなあ、お前は」
 ナンバーズ96は手を伸ばすと遊馬の顔を引き寄せ、涙と鼻水に汚れたそれを舐める。
「残りはオレが相手をしてやる。アストラルはまた明日だ。ん?」
「うん…」
「よぉし。オレはお前が好きだぞ遊馬」
 ナンバーズ96は嬉しそうに言うが遊馬は泣き止まない。紫色の舌はアストラルと同じ色だ、そう思うと余計に涙が出てきた。
 アストラルは階段教室をざあざあと流れて新しい海を作っていた。水色の海がビルを腐食させる。ぼろぼろと砂のように崩れた壁の向こうで雨上がりの空が、燃えるような夕焼けに輝いていた。ナンバーズ96の触手がその光景を遮る。卵のように、繭のように黒い触手は遊馬を包み込む。
 とぷん、と遊馬の身体は溺れる。だらしなく開いた唇から気泡が漏れた。
 アストラル、と呼んだのだった。






2012.5.15 わかたけさんの誕生日に。