人生で最も美しい日を

光の海を見下ろしながら


 朝日がカーテンを白く染める。シーツの影は青に。ドロワの手は無意識に枕元の体温計を探していて、朝目覚めて最初の習慣を行う。
 小さな電子音が知らせる頃には目も覚めていた。ドロワは体温計の表示を見つめる。体温計はARシステムとリンクしていて彼女の基礎体温は自動的に記録される。改めてそのグラフを見た。体温の高い時期がもうずっと続いていた。
 いつも通りの朝食メニュー。特に変わったものを食べたいという欲求は起きない。うっすらとかいた汗をシャワーで洗い流し制服を着れば外見にもいつも通りのドロワだ。
 ――まるでいつもと変わらないのに、な。
 掌が下腹部を撫でる。一ヶ月前を思い出す。WDC終了直後の時期だ。溜息が出た。
 タワーに到着すると、一足先に出勤していた同僚と早速ロビーで鉢合わせした。心の準備などあってもなくても同じようなものだ。早く会えたのは逆に僥倖だろう、と思いもしたが顔にはそれと真逆な表情が出たらしく、朝からなんつう顔してんだよ、と男が呆れる。
「あの日か?」
 目元が攣る。思わず眉根の寄ってしまったのが自分でも分かる。
「悪い悪い、怒るなよ」
 デリカシーのなさは自覚しているらしい男は両手をひらひらさせて自分を宥めた。
「口は災いの門という言葉を知っているか、ゴーシュ」
「元、じゃねえのか」
 同じ意味だ、そう応えるのも面倒でドロワはゴーシュを追い越しエレベーターに向かった。
「待てよ」
 どうせ行き先も同じこの男がついて来るのは仕方がないが。エレベーターの狭い箱の中、二人きりだと思うとどうしても今朝の体温計の数字、確信をもった事実が重く、何か口に出したい、しかし口に出すのは怖い。
「…何かあったのか」
 低い声でゴーシュが尋ねた。真面目な響きの言葉が鋼鉄の箱に落ちる。
 ――そんな声で訊くな。
「何も」
 短く答えると、ふ、と笑う気配。
「見くびるなよ。オレは誤魔化されないぜ。どんだけお前とコンビ組んでると思ってる?」
「どれだけだったかな」
「忘れるくらいだ」
 実際はそう長くもない日々が、今では十年にも感じられる。
 どれだけ一緒にいて、相手のデッキもデュエルも把握して、どれだけ同じベッドで寝て。その中でコンドーム無しのセックスをしたのはほんの数回のことなのに。ちらりと見上げると、笑いさえ滲ませて自分を見下ろしている、まだ何も知らないその表情に憐れみさえ感じてまた溜息が漏れた。
「何だよ」
「…話したいことがある。今日、仕事の後にでも」
「じゃあ飯でも食うか」
 男はDゲイザーを装着し、どこかにディナーの予約を入れる。そのテンションを裏切ることになるのだろうと思うと、ドロワは顔を背けもう相手を見ることができなかった。
 到着を知らせる小さなベルが鳴り、エレベーターの扉が開いた。

 ゴーシュが予約したのはよりにもよってホテル上階のレストランで、本格的なディナーにドロワは内心顔をしかめたが、もう後戻りすることはできない。
「何故、わざわざこんなところに?」
「たまにはいいじゃねえか」
 ボーイが案内しようとする席は窓際で、キャンドルまで灯っている。テーブルの上のキャンドルに、窓からは光に満ちたハートランドの夜景を見下ろし、フルコース。
 ドロワは思わず腹に手を当てる。
「腹、痛いのか」
「え?」
 ゴーシュはわざわざ足を止めて尋ねた。
「今日は具合が悪そうだな」
「そんなことは…」
 ない、と言えば嘘になる。
「無理すんなよ」
 男の手はドロワを優しく促した。
 テーブルに着き水を注文したドロワに次いで、ゴーシュも同じものをと頼む。
「付き合わなくてもいいのだぞ」
 できれば素面で聞いてほしいのが本音だが、いつもなら自分に遠慮などせずアルコールを頼む男が気遣いを見せると、こちらも思わずこういう言葉が口をつく。
 が、ゴーシュは不思議そうにドロワを見た。
「話があるんだろ」
 飯は二の次だ、と言わんばかりに。
「酔っ払ってちゃあ真面目な話も聞けねえからな」
 ドロワが俯くとタイミングを計ったように水が運ばれてくる。
「乾杯だけはしとくか」
 笑って促され、グラスだけは触れ合わせた。
 運ばれてきた料理のほとんどをドロワは残してしまった。精神的なものだ、と思う。肉体の不調ではない。しかし精神がここまで自分の身体を揺らすなんて、とドロワは急に情けなさを感じた。私は弱くなったのだろうか。WDCの、あの日から? それとも私は弱い人間だったのだろうか…。
 結局口火を切ったのはコーヒーが運ばれてくる頃だ。テーブルの上から皿が消え、水のグラス以外自分達を隔てるものはなくなった。
 ドロワは顔を上げた。
 目の前には見慣れた顔の男。熱血で、暑苦しくて、日に焼けた肌、燃えるような髪の毛、しかし瞳の色だけは夜明け前の冷たい海そっくりの静かな色をした男。右目の上を走る傷。自分は何度かあれに触れた。そこまでこの男に近づいた。
 ゴーシュは口を開かない。この男は黙って待つこともできるのだ。ふと閉鎖されていた心が開かれた気がした。目の前のこの男になら、真実を告げることができる。たとえそこで得る答えがどんなものだろうとも。
「落ち着いて聞いて欲しい」
 その瞳を見つめ、ドロワはただ真実を短く伝えた。
「妊娠した」
「そうか。名前、何にする」
「え?」
 あまりに早い返事に戸惑っているとゴーシュはボーイに目配せをした後、またドロワに向き直った。
「乾杯するくらいのアルコールは大丈夫だろ?」
「その……」
 分からない、と小さな声で答えると、ゴーシュはまた、そうか、と考え込み結局新しい水を注文した。ドロワは去って行くボーイの後ろ姿を見送り、呆然としたままゴーシュに向き直った。何故自分が呆然としているのだろう。
「ゴーシュ、私の言ったことを理解しているのか?」
「妊娠したんだろ。今言ったじゃねえか」
「そうだ、私は妊娠した」
「オレとお前の子どもができたんだろ」
「そっ……」
「おいまさかオレの子じゃねえってんじゃ…」
「馬鹿なこと言わないで!」
 悲鳴じみた声に辺りの空気が静まり視線が集中する。ドロワは両手で顔を覆った。
「ドロワ」
 厚い掌が触れる。手を掴み、顔を見せようとする。
「お前以外と、など…」
 呟くと、悪い、分かってる、と低い声が応えた。
 新しい水が運ばれてきて、ゴーシュの手が離れる。ドロワにはそれを追いかけることができない。手を掴まれるとさえ思っていなかった。何の約束もない関係の男だ。触れる前に振り払うことも予想していた。別に責任を追及するつもりはない。ただ事実だけを伝えて後は自分で何とかしようと、そこまで考えていた。だから離れた手を追いかけることなど、できない。追いかけていいのか、自分の心にも分からない。
 ――追いかけたい? それは冷静な正しい選択なのだろうか。
「どれくらいなんだ」
 尋ねられて、一瞬何のことか分からない。顔を上げるとゴーシュは真面目な顔で自分を見つめている。
「四週目…いや、正確なところは分からない。まだ医者には」
「オレはついていった方がいいのか」
「は?」
「旦那ってのは産婦人科についてくもんなのか?」
 沈黙が下りる。しばらくしてドロワは小さく、…し、知らない、と呟いた。
 この男は何と言ったのだろう。
「どうもオレたちは順序が逆だな」
 ゴーシュは苦笑するとドロワがテーブルの上で握った拳を取り、両手で包んだ。
「結婚、するか」
 包まれた手も、見つめる瞳も、このテーブルからも逃げることができない。体温がどんどん上がってゆく。暑いくらいなのに、男の手は優しくあたたかい。こんな手だとは思わなかった。改めて見下ろす手は直線的でゴツゴツしており、爪は短い。デュエリストの手だ。
 目の前に見つめる男が、ドロワの中で一つの形として再構成される。仕事の相棒、ベッドの相手。共に死線をくぐり、信頼を築き上げた。私はこの男を知っている。この男の性格も、デッキも、デュエルの戦術も、ベッドの上の匂いも、汗の温度も。目の上を走る傷、あれがどんな表情を作るかも。あれにキスをした時の感触も。
 ゴーシュ。この男と過ごした時間が今目の前の身体一つ、自分の右手を包み込む掌の温度に結実する。
 掌は強く自分の手を掴んだ。
「結婚してくれ」
 その瞬間、自分とゴーシュを隔てるものはなくなり、世界の壁が一つ壊れるのを感じた。
 音を立てて世界は変わった。
 この男が変えた。
「結婚、」
 ドロワは静かにその言葉を紡ぎ、ゴーシュの手を握った。
「してくれ、私と」
 ゴーシュは黙ってドロワの手を取り、手の甲にキスをした。
 乾杯は水で。
 ホールにはいつの間にか穏やかなざわめきが蘇り、キャンドルの明かりは仄かで誰も二人を邪魔しなかった。眼下に見下ろすハートランドの夜景は光の海だ。光の海を見下ろして、二人きり。
 ドロワはようやく微笑み、ゴーシュの指はその頬をそっと撫でた。

 子どもの名前についてはその後長い議論が交わされたが、ここに書き留めるには長すぎる件であり、また別の話である。






2012.5.4