君に落ちる恋


 ベッドの上に横たわった女の背中を見下ろしていた。触れると肌はじんわり汗ばんでいて、火照ったからだを冷やそうとしていた。生きているのが掌に直接触れて分かった。汗も肌も、その下を流れる血、肋骨を隔てて感じる心臓の鼓動。
 ドロワは瞼を閉じている。そこに何を映しているのかはしらない。自分以外の男かもしれないと思う。それでも構わないのは、最初からそのことを分かってドロワはベッドの上に身体を投げ出したのだし自分は彼女のスーツを脱がせたからだ。
 試作を重ねて作られた実戦にも耐え得る強化スーツ。彼女の髪の色と合わせたのか濃い紫色のスーツは脱がせにくく、ただでさえ人の服を脱がせた経験のない上では難儀をしたが――医務室の女医は自分から脱ぐか、あるいは脱がないまま自分に跨がるのだ――、ドロワはそんな自分を見ても笑わなかった。服を脱がされ、ルールが破られるのを黙って待っていた。
 ゴーシュはベッドの上に胡座をかき、ドロワを見下ろしている。雲もない、空気中の水分も少ないのだろう、明日は晴れであることを約束するような赤い夕焼けに窓が輝いていた。部屋の空気も同じ色に染まり、暖かくぬくめられている。呼吸すると甘ったるい匂いが鼻を塞いだ。空気の匂いだろうか。ドロワの汗の匂いだろうか。掌の下、汗ばんだ肌。ドロワは整った呼吸を繰り返している。
「起きてるんだろ」
 声をかけたが返事はなかった。
 指で背骨をなぞる。背中の中心を、それは美しいラインを描いている。指先で濡れた肌を切り裂いているような気がした。肌が裂け、背中が割れ、そこから姿を現すのは美しい蝶の羽だ。
 今日初めて使ったデッキの相性は、お互いに良かった。バタフライ。悪くないノリだ、と戦いながら思った。外側は飾ることなんか忘れた地味な女のふりしやがって、羽を開けばそこに広がるのはフォトンの青白い光だ。ルリタテハ、リュウキュウムラサキ、オオルリシジミ、昔見た標本を思い出す。ピンで留められた美しい蝶。この女も実験台で、道具だ。展翅された蝶と同じように。
 自分もまた同じことだ。蝶の標本ほど美しくはないが。お互いの身体には同じフォトンの力が流れている。それを思うと本当にこの指はドロワの薄い肌を切り裂き、その背中から蝶の鱗粉のような美しい光を溢れさせるような気がした。
「ルリタテハ」
 口に出すと、忘れるほど古い記憶のような気がした。
「リュウキュウムラサキ…」
 自分はどこでその標本を見たのだろう。やはり夕焼けに染まった空気の中で。それとも現在に引きずられて記憶の間違いだろうか。この研究施設で生活を初めてから全ては遠い。夕焼けの道を歩くこと。あかりの灯り始めた街灯。夕闇に浮かび上がるポスターや看板の文字。流行り物の広告。たくさんの見知らぬ人がそれぞれの家路を目指す通り。さよならの挨拶。明日の約束。夕飯さえ楽しみだった、あれは何年前のことだろう。
「何?」
 小さな声が尋ねた。
「ああ?」
「今のは、何」
 ドロワが瞼を開きシーツの上から見上げている。
「るりたては、りゅうきゅうむらさき…」
「蝶、の」
「蝶の?」
「名前」
 ドロワは自分の中でもう一度その名前を繰り返すように沈黙すると、瞬きをして瞼を伏せた。
「そんなものを知っているとは、意外だな」
「意外って何だ」
「言葉の通りだ。思ってもみなかった、ということだ」
「馬鹿にすんな、それくらい知ってる」
「てっきり」
 寝返りをうち、ドロワは窓の夕焼けに背を向けた。
「デュエル以外のことは何も知らないかと」
「言ってくれるじゃねえか。お前の知らないことを知ってたぜ?」
 ゴーシュはドロワの身体に手を滑らせると、腰にかかったシーツを剥ぎ取った。白い肌は夕焼け色に染まり、オレンジ色の尻を見ながら、これって安産型ってんだろ、と思う。コンドームを使ったし、ただでさえこんな関係はルール違反だ、妊娠させることなど考えられないし想像もつかないが、安産型ねえ、と思いながら丸みを帯びたそこを撫でる。
「やめろ」
 怒りを含んだ声。ゴーシュはニヤリと笑いその手を前に滑らせた。脚の間はまだ湿っている。
 ぐい、とドロワの手が掴み自分の身体から引き剥がす。短く整えているにも関わらず爪が食い込む。
「何すんだよ」
「お前こそ何をする」
「セックス。しただろ? 続き」
 やめろと抵抗するのを押さえつける。仰向けになった裸体を改めて見下ろすと喉が鳴った。ドロワが抵抗するからこちらも意地になったのだが、こうして見ると欲情を煽られざるを得ない身体だった。つんと上を向く形のいい乳房も、腹の、臍から下腹部に向かうラインも、自分の肉体の魅力を知ってか知らずか顔を赤らめる珍しい表情も。冷血女も女は女、か。
「…痛かったか」
 下腹部に手を滑らせて尋ねると平手が頬を叩いた。左手のそれは大して痛くはなかったがドロワの表情は食いかからんばかりだ。
「真面目に聞いてるんだぜ」
 そう言って静かに答えを待つとドロワも次第に落ち着きを取り戻し、呼吸を整えた。大きく息が吐き出された。ゴーシュを打った左手がぱたりと落ちた。
「…当たり前だ」
 小さな声が答えた。そう答えることさえ不本意だと言わんばかりの表情で、悔しいのか眉根が寄っている。
 しかしゴーシュはその反応に安心し、ドロワの脚を押し広げた。
「……っ」
 痛みからか羞恥からか、あるいはその両方か、ドロワが声を漏らす。ゴーシュは躊躇わず、血の匂いのするそこに舌を這わせた。
 ドロワはいよいよ声なき声で抵抗を示し自分の脚の間に埋められた顔を引き剥がそうとしたが、ゴーシュはそれをやめなかった。
「意味が…」
 涙声がドロワの唇から漏れる。
「訳が分からない…っ」
 ゴーシュは少し顔を上げた。ドロワが涙目になって自分を見下ろしている。
「気持ち悪いか?」
「そんな……」
 白い内股に唇を滑らせ、軽く噛みついた。痕を残すし、少し満足して笑うと、またドロワの匂いが鼻を掠めた。汗の匂い、肌の匂い、夕陽に暖められた空気の中でわずかに甘い匂い。
 生きているからこその匂いだ。標本も風の通らない場所に閉じ込めておけばいつかは風化する。ぼろぼろに崩れ去る。掌の中でかさかさと崩れ落ちていった乾いた羽を思い出す。すると手の中の女が生きていることに、妙に感動さえ覚えた。この血にも、溢れてくる液にもフォトンの力は混じっているのだろうか。青白い光。蝶の羽、砕ける鱗粉…。
「ゴーシュ…」
 掠れた声が呼んだ。ドロワが両手で顔を覆っていた。唇が震えている。
「ゴーシュ……!」
 瞼で覆い手で覆ったその下に誰の顔を思い浮かべているのだろうか。自分の名前を呼びながら、他の男を思い出したりするのだろうか。
 ゴーシュは女の身体に自分の身体をすり寄せ、そっと自分の性器に触れた。それはもう勃起していた。いつから興奮していただろう。
 身体だけの関係で構わないと言った、お互いに。
 誰を想おうが自由だと了承した、お互いに。
「ドロワ」
 柔らかな入口に触れると、ドロワの身体がぴくりと動いた。
 そうか、オレは別にお前を想いながらお前を抱いてもいいって訳だ。と、思うと興奮に制御がかからず無理に押し入ってしまった。ドロワが歯を食いしばって、低く呻いた。
 しかし、
「ドロワ…!」
 想えば、止まらず。
 貪り喰い尽くす勢いにドロワは悲鳴を上げ、爪が背中に食い込む。その力が自分の身体をぐっと引き寄せる。唇を近づけると、余裕がない様子ながらも顔が逸らされた。
「キス、させろよ」
「いや…」
 拒まれたがキスをしたので、爪ははっきりと抵抗の意志をもってゴーシュの背中を引っ掻いた。身体を密着させるといよいよ強く抱かれるようで悪い気はしなかったが。
 いつの間にか夕焼けの、空気そのものが光を孕んでいたかのような気配が失せ、部屋は静かに夕闇に沈もうとしていた。薄く濁ったヘリオトロープの夕闇。窓の外にぽつぽつと輝くものがあり、それはフォトンの光などではなく、遠い街灯だったりしたが、今のゴーシュに見えているのはドロワの中のフォトンの光だけで、彼女の声に、甘く香る彼女の匂いに、制御できず自分を締めつける彼女の熱に、蝶の羽の内側のような青白い光を感じた。彼女の中に放ちながら、まるで彼女の光が自分の中に流れ込んでくるようだった。

 コンドームを捨て、湯を絞ったタオルで彼女の脚の間を拭うと、冷たい瞳がいよいよするどく自分を睨みつける。自分ばかりシャワーを浴びたのを詰っているのだろうか。しかしドロワはもう動けないのだ。それをはっきり身体で示した。彼女は立ち上がることができなかった。
「恐い顔すんなよっつっても無理か。まあな、悪かったよ」
 ゴーシュは素直に謝る。一回だけのつもりだった。その約束をやぶったし、二度目はコンドームを忘れた。毎朝基礎体温を計っているらしいドロワが――体調管理の一環だとさ!――嫌々ながら心配するなと教えたが勿論赦された訳ではない。
「よし、恨むなら恨め。殴るなら殴れ」
 目の前にどしんと胡座をかくと、平手が顔をぶった。やはりあまり痛くない。次に彼女の拳は容赦なくゴーシュの腹の中心を狙った。少し意外だったので、ちょっと効いた。
「痛ぇ…」
「痛くなくては困る」
 ゴーシュはニヤリと笑う。
「気が済んだか?」
「その笑いはやめろ。腹立たしい」
「もっと腹の立つことをしてやるぜ」
 キスをしようとすると彼女の手はいっそう激しく抵抗した。
「今更キスくらい、お前…!」
「歯を!」
 珍しく大声がゴーシュを叩く。
「歯を、磨いてこい!」
「歯ぁ…?」
 ドロワの顔は真っ赤だった。何で今更歯磨きだよと思ったが、彼女が膝をすり寄せて脚の間を隠すのでようやく思い当たった。なんだ、と思う。
 無理矢理近づけていた顔を少し引き、ドロワの目を見つめる。
「歯、磨けばいいのか」
「それは…」
 ゴーシュはシャワールームで真新しい歯ブラシの封を切って歯を磨き、わざと音をたててうがいをした。
「さ、お待たせだな」
 ベッドの上に戻るとドロワが身体を引く。
「どうして…」
「ん?」
 ドロワは俯いて呟く。
「何故、キスなどがしたい」
「あー…」
 最初、身体の関係にキスは含まれていなかった、多分。服を脱がせ、服を脱ぎ、裸でベッドに横たわった時必要なのはセックスのための準備でキスではなかった。
 窓から射す夜明かりがドロワの顔を青白く照らし出す。この日が暮れてしまうまでの間、確かに自分は変わってしまったのだ。
「ノリだよ、ノリ」
 そう答えるとまた彼女は不愉快そうな顔をしたが、ゴーシュのキスには抗わなかった。






2012.4.30 19歳ゴシュドロを念頭に置いて