アウトライド 2


 病院のロビーは時間外ですっかり明かりが落ちている。斜めから非常灯の青白い光に照らされてゴーシュは一つくしゃみをした。遅番の看護婦がもう帰るところだったにも関わらずロッカールームに引き返し、タオルを持って来てくれた。
「返さなくていいわ。私物だから」
 看護婦はそう言ってついでにDゲイザーに自分のアドレスをくれる。
「困ったことがあったら呼んで。力になるわ」
 それに笑顔だけを返した。年上の女、しかもナース。非常に魅力的だったが、取り敢えず光の漏れる診察室で消毒だのの治療を受けているだろうドロワが気になった。
 濡れた身体をタオルで拭きながら治療が終わるのを待つ。そう言えばドロワはどうなのだろう。ずぶ濡れのまま診察椅子に座っているのだろうか。裸足の足下にできた水たまり。あの女の足下にも同じものができているのだろうか。
 沈黙の時間を長く待ったような気がした。ドロワは誰の手も借りずに診察室を出てきた。歩き方はひょこひょこと、片足に負担をかけないよう不格好だったものの、しかしつらそうな雰囲気というのを見せない。ロビーで待つゴーシュにはすぐ気づいたらしく、視線が合った。
「どうだ」
 近づき、尋ねた。ドロワの足はまだゴーシュの靴を履いている。
「三針、縫った」
「そんな酷かったのか」
「二針では傷が開いてしまうから、間にもう一針」
「ああ。へえ」
 後ろから今度は当直らしい、おそらく医師と共にドロワを診てくれたのだろう看護婦が追いかけてきてドロワに古いスリッパを渡す。かくしてぶかぶかの靴は持ち主のもとへ戻ったわけだが、それをドロワが非常に居心地悪そうに見つめていた。
「…何だよ」
「す……ごめんなさい」
 すまない、と言いかけたのを飲み込んでごめんなさいという言葉を選択した心の動きが何となく読み取れて、悪い気分ではない。
「別に。ノリだよ、ノリ」
 靴を履き、今日二度目になる科白を吐く。
「これからどうする」
 尋ねるとドロワは黙ってDゲイザーを取り出し、タクシーを呼んだ。
「これ以上迷惑はかけない」
 パッと顔が上がる。
「感謝はしている。本来なら何か礼を…」
「気にすんなよ」
「…ごめんなさい」
「お前、あんまり謝るなよ」
「え?」
「オレはオレのやりたいことをやったっつったろ。別に迷惑なんざ感じちゃいねえんだよ」
「………」
 ドロワは俯き、そして俯いたまま小さく呟いた。
「ありがとう」
 ヘッドライトが眩しく玄関前を照らし出す。
 小さな顔が上がった。
「…ありがとう」
 囁くような声だった。
 タクシーがドロワを連れ去ると、明かりの消えた病院の車寄せにゴーシュは一人残された。屋根を暗い雨が強く打つ。これからバイクに乗って帰宅を…と考えたところで、くしゃみが出た。寒い。ただ帰る、のは無しだ。
 Dゲイザーを取り出し、教えられたばかりの番号にかける。看護婦はすぐに電話に出て住んでいるアパートを教えてくれた。バイクを飛ばし、すぐさまそこに向かった。
 熱いシャワーと、レンジで温められた料理、いい匂いのする薄着の女、職業はナース。夕食を御馳走になった後はパジャマのナースに美味しくいただかれ、気づけば夜中近い。
「泊まっていきなさいよ」
 看護婦は乱れたシーツの上に俯せ瞼を閉じたまま気にする様子もなく言った。起きかけたゴーシュはその言葉に甘えることにしたものの、ベッドから出る。
「なぁに?」
 眠そうな声。
「風呂場、借りていい」
「ん…」
 曖昧な返事に感謝の言葉を返す。ゴーシュは玄関に置きっぱなしになっていた濡れた自分の鞄から上着と、それに包まれた女物の革靴を取り出した。
 シャワールームで上着についた泥を洗い落とす。それからタイルの上にしゃがみ込み、暖色の照明の下でしげしげと革靴を眺めた。
 ゴミ捨て場に隠されていた左足。ドロワが自分からゴミ箱に捨てた右足。
「くせ…」
 呟き、シャワーを使って洗う。あの生臭い匂いが残っているようで、ボディソープを使った。こんな匂いは、あの女には似合わないのだ。ドロワには。
 雨の冷たい匂い。病院のロビーでかいだクレゾールの匂い。自分の腰にするりと巻きついた冷たい腕。
「ドロワ、か…」
 濡れた靴を手に呟いた。
 洗った靴は玄関に立てかけ、ゴーシュは表面のひえてしまった身体をベッドに滑り込ませる。看護婦は小さく呻いてゴーシュのスペースを空け、夢うつつの手や額をゴーシュに押しつけた。
「つめたい…」
 ぼんやりした、寝言のような呟きが漏れる。ゴーシュは看護婦の身体に手を伸ばしながら目を閉じた。瞼の裏に浮かび上がるのはドロワの白い指、紺色のソックスを脱いだあのしっとり濡れてしまった白い臑。顔が上がる。自分を見上げる。唇が小さく動いて恥ずかしそうに囁く。ありがとう…。
 看護婦が小さく笑った。ゴーシュの身体の異変に気づいたのだった。ゴーシュは眠ったふりをした。看護婦はしばらく笑っていたが、やがて静かになった。
 目を開くとそこはやはり見知らぬ部屋であり、そのことに少し安心した。まだ雨音が聞こえる。きっと明日までに乾かないだろう革靴、自分の上着。しかし構いやしない。ゴーシュも眠る。今度こそ、本当に。

 朝は遅刻する時間だったが、看護婦はまだ寝ていた。
「今日は夜勤なの」
 ベッドから手を振るのに礼を言って外へ出る。かけた鍵をポストに落とした音がやけに大きく響いた。
 二四時間営業のハンバーガーショップで腹ごしらえをし、一時限後の休み時間に教室に入った。早速近づいてきた悪友が尋ねる。
「あの冷血女とヤッたって?」
 噂になるかもしれないと思っていたが、進展の度合いが。
 事実どおり否定したとしても、自分にまで届くくらいだからもう相当広まってしまっているのだろう。否定することが逆効果にもなりかねない。かと言って肯定すれば火に油を注ぐようなものだ。
「ああ?」
 取り敢えず不機嫌そうな面で返した。悪友はまあまあ、と手で抑える。
「恐い顔すんなよ。で、どうだった」
「どうもこうもねえよ」
「勿体ぶるなよな」
「知るか」
 隣のクラスはどうだろう。ドロワは登校しているのだろうか。ぼんやりと廊下を眺めると、その視線を追って悪友がニタニタと笑う。
 チャイムが鳴って悪友との話はそこまでになったが、噂は刻一刻と、授業中でさえ着実に広まっているに違いなかった。
 ドロワの姿を見かけたのは放課後だ。少し古ぼけた靴を履いていた。紙袋に包んで鞄に入れたドロワの靴はまだ生乾きだ。しかし追いかけることにした。
 雨は上がったものの、どんよりとした天気だ。雲には濃淡さえなく、灰色のぼんやりとした奥行きのない空が広がっている。その下でもやはりドロワの立ち姿は姿勢がよく、清々しく冷たい。
「ドロワ」
 声をかけると素直に足が止まり、振り向いた。
 無感情的な表情。
 噂の、冷血女。
「昨日は世話になった」
 落ち着いた、感情を抑えたいつもの調子の声だ。
 ――いつもの調子ったって、あんま知らねえけど。
 昨日のことでいやに近づいた気には、ゴーシュもなっている。
「足、どうだ」
「あなたが気にする程のことはない」
 痛くない、とは言わない。痛いのを隠しているのかもしれない。
「靴」
 ゴーシュが言うと、ちらりと自分の履いた古いそれを一瞥した。
「新しいものは買えないから」
「お前の…」
 言いかけてゴーシュは校舎から見下ろす視線の数々を感じる。
「今日、病院は」
「包帯を換えに」
「付き合う」
「必要ない」
「じゃあお前がオレに付き合え」
 手を掴むと、ドロワが一瞬拒むように身体を硬くしたのが分かった。それでも手を引いた。細い手首。冷たい手。昨日はこの手が自分の腰を抱きしめたのだ。
 ドロワを後ろに乗せ、飛び出すように学校を出た。背中が震える。横顔を押しつけたドロワが何かを言っている。
「何だって!?」
 大声で尋ねると、
「無茶苦茶だ!」
 大声で返事が返ってくる。
 冷血女に大声を出させたぞ! 急に愉快になった。
「ノリだよ、ノリ!」
「またそれか!!」
 病院で包帯を換える間、またロビーで待っていた。流石に夕方ともなると人は少ない。夕暮れの空気の下では静かな病院がいっそう静かに感じた。たまにナースの姿がよぎる。夜勤の看護婦はもう出勤しただろうか。
 診察室から出てきたドロワはまた早速タクシーを呼ぼうとする。
「待てよ」
「もう帰宅するだけだ」
「逃げんな」
「私があなたから逃げる?」
「いいから、ちょい座れ」
 昨日からのことで強くは出られないのか、ドロワは素直に言うことをきく。
「お前の靴」
 紙袋に包んだそれを渡した。ドロワはそれを手にじっとしている。驚きでも、感謝でもなく、無表情がそれを見下ろす。
「まだ乾いてねえけど」
「……どこから?」
「お前が捨てたゴミ箱と、裏のゴミ捨て場」
「駐輪場脇の?」
「ああ」
「そう…」
 ドロワは紙袋の上に手を置いて溜息をついた。
「ありがとう」
 感情のない声。
「嬉しくなさそうだな」
「…あなたとの関係、根も葉もない噂を立てられている」
「オレも被害者だ」
「あなたに文句を言うつもりはない。助けて…くれたのだから」
 白い指が包みをぐしゃりと掴んだ。ぴんと伸びていた背が丸くなる。ドロワは深く深く俯く。
「何故、私に構うの…」
 涙に震える声が尋ねた。
「ノリだっつってんだろ」
「意味が分からないわ」
 泣きたくなどないらしくドロワの肩は震えて、呼吸が不規則に漏れた。ゴーシュは黙って隣に座っていた。別に肩を抱くことも胸を貸すことも、ポケットにはハンカチだってなかった。
 玄関を施錠するからと、痺れをきらした看護婦が追い立てるまで並んでロビーに座っていた。






2012.4.23 学パロ