アウトライド 1


 夜の音がする。純粋な夜の音だ。ヘッドライトに切り裂かれる闇の音。アスファルトの真っ黒な表面がタイヤを削る音。エンジンの唸りが自分の心臓の音のように鳴り響く。夜の中に溶けて夜を裂く。だがいつもの開放感はなく、今ゴーシュの目の前にあるのは切り裂いても切り裂いても広がる夜で、別段それが不安だということでもないのだが、このまま永遠に走り続けるような夢想が存外現実と相反するでもなく、本当にどこまでも走ってゆけそうで目的地が見えなかった。
 見慣れた街の見慣れた道を見慣れぬ方向へ。目の前に広がり切り裂く景色は未知であっても怖れないのは、しかとここにある現実が自分の腰を掴んでいるからで、それがドロワの細い腕であり、背中に押しつけられた彼女のぬくもりだった。
 シャツがわずかに濡れているのをゴーシュは知っていた。とにかく黙って走り続けた。どこにも辿り着かないということはない。現実には着地点がある。本当に白紙の未来などないのだと知っていたが、その中でも自由度を持った選択ができるとすればそこへドロワを連れて行こう。そう思った。

          *

 事の発端は、あの雨の日にある。
 週初めから降り続く雨が校舎の中に憂鬱を押し込めていた。生徒達は暴発しそうになっていた。健全なるハイティーンの男女共々、雨と、雨と、ひたすら雨と、そこへ続けて午後の物理、数学のコンボ。更に数学の補習という追い打ち。とどめは教師の説教。退屈の底を踏み抜いて、この世の空虚を全て知った気になり全部壊れてしまえという破壊衝動、何でもいいから刺激をという刹那主義的欲求が蔓延していた。
 湿った廊下を歩いていた。誰かが窓を開けたのか、湿気が酷く床は濡れて滑りやすくなっていた。しかし仕方もないことだろう。教室内には嫌な熱気が充満している。それを湿っていてもいい、少しでも冷たい、涼しい空気と入れ替えたい。でなければ何か吐き出しそうなのだ。廊下を歩くゴーシュとて、それを感じていないではなかった。捌け口がない。突破口が見つからない。それは廊下の窓ではないのだ。
 大きく弧を描く階段を下りると玄関ホールだ。ふと足が止まった。いやに静かだった。ゴーシュは階段に足をかけたままホールを見下ろした。ひとけのないホール。昇降口のガラス扉は開いていて、そこから這入り込む雨音が冷たく反響する。靴箱の前にぽつんと人影。
 あいつだ。ゴーシュは把握する。周囲を見渡すと、柱や廊下の影に隠れるように人影はあった。皆があれを見ているのだ。靴箱の前に立つ一人の女子生徒。膝にかかる、周囲に比べればスカート丈の長い、少し珍しいシルエット。
 どういうことなのかは匂いで分かる。獲物を狙い息を潜める不自然な静けさ。自分に慣れた喩えを用いれば罠カードを伏せて相手ターンを待つ間の沈黙。
 が、ゴーシュは階段を下りる。何人かの影がゴーシュを見下ろした。知ったことか。自分はイジメに興味はないし関係ない。ただ周囲よりスカートの長いその女の靴箱と自分のところは近かったのだけれども。
 ホールに下りるとそれが誰なのかはっきりした。隣のクラスの女子だ、が、有名な優等生だ。名前も知っている。確か、ドロワ。自分の名前が名前だから覚えもした、ということもあるがそれを抜きにしても名前は聞く。教師の受けがよく、クラスメイトとは群れない。成績は良く、デュエルも強い。お高くとまった、と評判の優等生らしい優等生、プライド付き。
 背後を通り過ぎながら覗き込む。ドロワは片手に上履きを持ち、もう片手で自分の靴箱の扉を開けている。その状態でじっとしている。
 ――ベタな手だぜ。
 遠慮のない視線に相手も気づいたのだろうが振り向こうともしない。ゴーシュは自分の靴を取り出し、履き替えた。
 その時、小さな音がした。ドロワの手が静かに靴箱の扉を閉めた。手には学校指定の革靴が片方だけ。
 彼女はゴーシュを追い越すと昇降口の隅にあるゴミ箱にそれを突っ込んだ。
 きゃあっ、という悲鳴がホールに響いた。甲高い、数名の女子の笑い声。ゴーシュは振り向いたが、どこにいるのかは分からない。
 ドロワはドアの前に立っていた。タイルの上はもう雨や濡れた足跡に汚れていて、彼女はそこへやはり学校指定の紺色のハイソックスで直に佇んでいるのだった。
 背後から見ても怖じていないのが分かった。顎は引くでもなく自然に前を向いているのだろう。肩は落ちるでもない。背筋も真っ直ぐに伸びて気負いのない綺麗な立ち姿だ。そして彼女は躊躇いもなく雨の中に踏み出したのだった。
 女子の悲鳴だけではなかった。それに混じって男の笑う声も聞こえた。ホールに反響するヒステリックな嬌声と嘲笑が出口を求めドアから飛び出し、雨の中を歩く女の背中を追う。しかし彼女は決して振り返らない。嗤いが掠った素振りも見せない。靴を履き、傘を差した人間が歩くように堂々と雨の中を行く。
 目も付けられるだろう、とその背中を見送りながら思った。ゴーシュは被害者として彼女を見ることができたが、それにしても可愛げのない様子ではある。
 ――まあ泣いたら泣いたでいい餌食になるんだろうから何とも言えんが、それにしても…
 冷たい女だな、と思った。周囲に対してだけではない。あの様子ならばきっと自分に対しても冷たくできるのだろう。事実、それを表す、ゴミ箱に捨てられた片方の靴。濡れた靴下の足で堂々と歩く姿。可愛げはない、が。
 ――おもしれえ。
 珍しく気概のある女だと思った。
 玄関ホールの空気は解け、補修を終えた学生達ががやがやと自分の帰路につこうとしていた。ゴーシュはゴミ箱から片方の靴を拾い上げると、自分も雨の中に踏み出した。ドロワの後ろ姿は随分遠くなっていたが、校門を出た通りを右に曲がったのは確認できた。それだけ分かれば後は何とかなるだろう。
 バイクを停めた校舎裏に向かう。駐車場脇にはゴミ集積所。オボットの回収は夕方だが雨で遅れているのか、果たしてそこにはゴミの山があって、ゴーシュは袋の口の緩んだのを漁る。案の定、もう片方の靴が出てきた。サイズはぴったり同じ。ただし嫌がらせは念入りで、靴の中には女子トイレから持って来たのだろう生ゴミが詰め込まれていた。
「うへえ」
 思わず声が漏れる。息を止めて靴の中のゴミを落としたが、指先につまんだ靴を何ともし難い。が、手に掴んだらもう今更後悔しようもないか。腹を決めて上着を脱ぎ両方そろった靴を包むと、鞄に押し込んだ。雨があっという間にシャツを濡らし、身体を冷やす。冷たく感じる分、体温が上がっているのが分かる。悪くない心地だった。
 バイクに跨がり、いつもと反対の方向へ、校門を出た通りを右へ曲がる。学生の通る道は限られているから、その後ろ姿は苦労せず見つけることができた。特に彼女はこの雨の中、傘も差していないのだ。目立つ。周囲の傘も僅かに彼女を避けるように歩いていた。
「おい」
 スピードを緩め、声をかける。
「おい!」
 しかし女は振り向かない。靴下の足が当たり前のように歩道を踏む。頭のてっぺんからつま先までずぶ濡れになりながら、それがまるで何でもないことのように歩き続ける。
「ドロワ」
 面識もない相手をいきなり呼び捨てにするのはどうかと思わなくもなかったが、教師にさえ敬称を用いないゴーシュだ。ドロワさん、などの選択肢はない。
 しかし名前を呼ばれても彼女は振り向かなかった。ならば、と彼女の前に出てバイクを停めた。すると視線が合った。
「乗れよ」
 無視。ドロワは歩調を緩めることなくゴーシュを追い越していく。
「ドロワ」
 名前を呼びながらゴーシュは追いかけた。
「乗っていけよ」
 ぴたりと足が止まった。ゴーシュは横に並び、車道から彼女を見る。綺麗に伸びた背筋。俯くことのない顔がちらりとこちらを見る。冷たい視線。
「あなたは、何?」
「ゴーシュ。お前が知ってるかどうかは知らないが隣のクラスだぜ」
「だから?」
「乗せてやる」
「意味が分からない」
「オレのバイクに乗せてやるっつってんだよ」
「言葉の意味は分かっている」
「送ってくぜ?」
 すると眦が僅かに吊り上がり険のある表情になる。
「同情はいらない」
「誰が同情だって言ったよ」
「あなたは見ていたのだろう、昇降口でのこと」
 勿論見たから追いかけている。それに関しては否定しない。
 肩を竦めると、
「親切ごかした好奇心はやめてもらいたい」
 ドロワは心底迷惑そうに言った。
 相当だな、と思いつつゴーシュもここで大人しく引き下がる訳ではなく。
「理由だの何だの別にいいじゃねえか。ノリだよ、ノリ」
「必要ない」
 とうとうドロワの視線や声の冷たさに妙な苛立ちが滲んだ。
「あなたも私に構わず帰ればいい。風邪を引くのでは?」
 その苛立ちを自ら断ち切るようにドロワは歩き出した。
 雨空の下、早くに灯った街灯やショーウィンドーの光がずぶ濡れの小柄な姿を照らし出す。でもそれはちっとも惨めではない…少なくとも本人はそう感じているらしかった。ゴーシュから見ればその意地の張り方は痛いというか、割れたガラスの先にでも触るようで気分的には一周して全部粉々にしてやりたいと思わなくもない。
「ドロワ!」
 少し強めに呼ぶと、ぴょんと跳ねた肩がそのまま怒りに持ち上がり、噛みついてくるかと思ったがそうでもなく。
「気安く呼ばないで」
 見返り美人そっくりのポーズで冷たい科白を吐く。
「不愉快だ」
「怒らねえの?」
「あなたのような人間に構う時間も労力も惜しい」
「その割には返事するのな」
 と、それには返事をせずドロワは歩調を速める。
 その時、足下を見なかったのだろう。何かを、踏んだ。身体が蹌踉めく。ガードレールについた手の白くほっそりしたラインが妙に目につく。
 ドロワは片足を持ち上げ、振り向く格好で足の裏を見ていた。ゴーシュに見えたのもう真っ黒な靴下の裏だけだが、煌々と照らされた歩道の方はよく見えた。割れたガラス…ビンの破片と雨に滲んだ血。
 小さな溜息が漏れた。ドロワの肩がすとんと落ちた。ゴーシュはバイクを押してガードレールを挟み、隣に並ぶ。
「踏んだな」
 ドロワは何も言わず、足の裏にはもう大きなものは刺さっていないのを確認したものの、つま先をついては顔を歪めた。
 それなのにそのまま帰ろうとする。相当な女だ。人に冷たいのはともかく、自分に厳しくとは言ってもその冷たさには限度があるだろう。
「待てよ」
 腕を掴むと睨まれた。
「恐くねえし」
「あなたが恐怖を感じるかどうかは関係ない。私は不快に感じているの。離して」
「そう強がんなよ」
「強がってなどいない。私はいつもどおりの…」
「お前のいつもどおりとか知らねえよ」
 脇に手を入れて持ち上げると、女の身体は思ったより軽く持ち上がった。へえ、こんなもんなのか。
「なっ…」
 ドロワは抵抗するより驚いて身体が硬直したらしい。ゴーシュはそれを割と簡単にガードレールのこっち側に持ってくることができた。停めたバイクの上に座らせてもドロワはもう何も言わなかった。まだ硬直が解けていない。怪我をした方の靴下を脱がせると小さく悲鳴が聞こえた。ゴーシュは脱がせた靴下を捨てて、足の裏を見た。刺さった傷だ。もしかしたら細かい棘も残ってるかもな、と思うと見ているこっちが痛くなる。
「破傷風」
「…何?」
「感染しても知らないぜ?」
 まさか、と小さく呟いてドロワは口を噤んだ。ゴーシュが自分の靴を脱いだからだった。
「取り敢えず」
 しゃがみこんで靴を履かせる。スカートから覗く白い膝。僅かに靴下の跡が残る足。
「これ履いとけ」
 ゴーシュの靴はぶかぶかで今にも脱げそうだったが、それを履かされたドロワは急に大人しくなった。
「連れていくから、掴まってろよ」
「…どこへ」
「病院に決まってんだろ」
 手は触れるまでおずおずとしていたが、不意にするりと腰に抱きついた。濡れたシャツを越しても分かった。冷たい手だった。
 雨の中を病院目指して走った。これが始まりだった。あの日も背中は濡れていた。それが彼女の涙によるものかは分からなかったが。






2012.4.19 学パロ