夕べの葬送 煉瓦造りの駅前にはかつて銅像の建っていた大理石の台座だけが残されている。銅像の方はどこへやら。台座は鴇色に濡れた空気の中でつやつやと光り、どれもこれもが輪郭をぼんやりさせた景色の中で唯一、しっかりと地上に立っていた。 遊馬は台座に腰を下ろし、待った。 アーマーに包まれた足下まで海は迫っていた。静かに打ち寄せる波。鴇色の景色の中で、ほんの僅か、一足早い夜の色を孕んだ水面。駅前の石畳の広場はその半分が既にひたひたと海水に浸されて、空の鴇色を映していた。線路はとうに海の底だ。動く列車も、懐かしい鉄の音も聞こえない。 水平線の彼方を叩く遠い雨音と潮騒は混じり合い、地球がまどろみの中でざわめくように聞こえる。それともこの波が揺籃の揺らぎか。 空を切り裂くような滑空音。遊馬は顔を上げる。 待ち人は天より来たりて、濡れた石畳の上に降り立った。 「オレを呼んだということは、決着をつけるということだな」 天城カイトは台座にしゃがみ込んだ遊馬を見下ろし、冷たく、語気は強く言う。 「せっかちだな。お前も座ったら?」 「オレと話をすると言うなら、その馬鹿のような合体を解いて姿を現せ」 「そこが問題なんだ、カイト。だからオレはお前を呼んだのだ」 遊馬の言葉がふと冷たく切れる。 妙な感触ではあった。カイトは口を噤み、遊馬の、いや究極体ゼアルとなった目の前の存在の、左右で色の違う瞳を見た。金色の瞳と、Dゲイザーに隠れたもう片方の瞳は…。 「アストラルは死んだ」 唐突な言葉だった。 カードをドローした。トラップを発動した。デュエルに勝った。ナンバーズを回収した。それらの言葉の方がまだ感情や感動を持って発せられる気がした。 「…なんだと?」 「アストラルが死んだんだよ。だからお前を呼んだんだ」 「どういうことだ」 「お前はアストラルに執着してただろ。お前は知りたがる事実だと思ったし、それにお前ならアストラルの記憶を持っているから呼んだんだよ」 「しかしお前は…」 「ああ」 遊馬は大理石の台座から立ち上がる。金色の粒子が鴇色の空気に舞う。 「ゼアルだよ。オレも本来の九十九遊馬じゃない。でもオレは遊馬だ。だけど、アストラルは死んだ」 「溶けた、というのか」 「オレの中に? その言葉の選択も間違いではない。ほら、オレの言葉にもアストラルのいた証拠が残ってるだろ。けど、あいつはもういない。消滅したんだ、オレの中から。もう呼びかけても返事がない。オレの内部をどれだけ探しても痕跡がない」 Dゲイザーのグラスが持ち上がる。そこから覗いたのは右と同じ、金色の瞳だった。 「もうこの眼もオレのものだ。肉体にも、心にも、アストラルの気配はない」 「アストラルが…消滅…?」 「まあな。アストラルの使命はもうほとんど果たされていた」 地球を、この世界を破壊する。いつかナンバーズ96がはしゃいだようなやり方でなかったとしても、使命の本質に変わりはなく、そして確かにそれは果たされていたのだ。こんな高地の駅まで海が迫っている。世界のほとんどの都市が水に満たされ、海の底だった。清浄なまでに地球を覆う水面。永遠に続くかのようなぬるい夏の夕暮れ。 「座れよ」 遊馬は促す。 「話したいんだ」 「…何を」 「思い出話さ、アストラルの」 そう破顔し、大理石の台座をぺちぺちと叩く。 カイトが台座に腰を下ろすと、遊馬は溜息をついた。 「オレたちが初めて会ったのはショッピングモールだったよなあ。夕方、だったっけ? ガラスの天井から光が射してた。今日みたいな夕方の色じゃなかったか?」 「オレは下らん話に付き合う気はない。大体貴様も覚えているだろう」 「そりゃ覚えてるさ。アストラルと出会った瞬間から、呼んでも返事が聞こえなくなる瞬間までどれも忘れてない。オレの中にはナンバーズの力があるんだ。全ては知識として記録としてアーカイヴされている。しかしそれはオレの記憶ではない。分かるか、カイト」 不意に冷たい声音と鋭い視線が向けられた。 「全ては記録だ。オレに必要な記録。オレはいつでもそれを引き出し、参照することができる。しかしもう味わうことはない。オレにはどの瞬間も今存在しているものと変わらない。オレには思い出話というものができないのだ」 「…今の喋り方は十分アストラルの影響を受けているらしいが?」 「勿論だ。アストラルはオレの血肉になったんだから。だけどオレにはもうオレとアストラルの区別はつかないし、アストラルが残していった外的特徴、この眼だって自分の眼で見ることはできない。懐かしむこともできない。その点、お前は違う。カイトならアストラルのこと覚えてるだろ? あいつとデュエルしたことも、オレとタッグデュエルしたことも、ハルトのことだってあるだろ? 覚えてるだろ? お前が持ってるのは全部思い出なんだよ。オレはそれが聞きたいんだ。頼むよ、カイト」 冷たい声音は感情らしきものを乗せるに従ってかつての遊馬のそれに近くなり、今や遊馬は両手でカイトの腕を掴んでいた。 「アストラルの思い出を持ってるのは、もう世界中でお前しかいないんだぜ」 カイトは溜息をつく。 「お前は思い出と言うが、ろくなものではないぞ。まず何より恨んでも恨み尽きず、許しがたいエピソードから話してやろう。ハルトがハートランドを抜け出した時のことだ。街中でハルトを保護してくれたことには礼を言う。しかしその後、貴様らがハルトを連れ回したりなどするから、ハルトはトロンに捕らえられ…」 「ああ、やっぱり!」 遊馬が大声を上げる。突拍子もないタイミングと声だったので、カイトも少し驚き言葉を止めた。 「おかしいと思ってたんだ!」 「何がだ…」 「オレの記憶にないんだよ、それ」 「あれだけのことをしでかし、覚えていないというのか!」 「うん、オレは覚えてないけど、アストラルの記録の中にはあるのに、全体を見てもあまり問題がなかったけど、個別で取り上げた時の齟齬が気になってたんだよ」 興奮しているのか言葉には遊馬のそれとアストラルの口調が混じり合って、カイトは違和感を感じながら、しかしハルトのことを覚えていないという遊馬をどう断罪してやろうか待ち構えつつ、次の言葉を聞く。 「やっぱりアストラルはオレの記憶を改竄してた」 やはりあっさりと遊馬は言った。 「っていうか、ごっそり消してたみたいだな」 「記憶を…消した? アストラルが?」 「うん。オレの感情は時々アストラルの計画を阻害する原因だったのだ。そのことに気づいたアストラルはある時点からオレの記憶に積極的に介入していた」 多分もっとあるぜ、オレの知らない記憶。と遊馬は笑う。 「だからさ、もっと喋れよ、カイト。思い出話」 いつの間にか、促されるままにカイトは喋っていた。 そうやって確認してゆくと遊馬の記憶への干渉はかなり規模の大きなものであり、最後はもうほとんどアストラルの造り上げた記憶が遊馬となっているに等しかった。流石のカイトも少し呆れながら尋ねる。 「それでいいのか、お前は」 「何が」 「それでも聞きたいのか。アストラルが自分の記憶を消したという証拠を、それでも知りたいか」 「最初に言っただろ、オレは思い出が欲しいんだ。それにオレは別にアストラルのことを恨んでないぜ?」 遊馬はアーマーに包まれた胸を拳でノックする。 「アストラルにはオレしかいなかったんだ。そんなアストラルのことを、オレが好きじゃないわけないだろう?」 「それなのに最後は融合でさえなく、消滅した、か…」 「寂しくはなかったと思うぜ」 遊馬は、かつての遊馬を彷彿とさせる笑顔で笑った。 「オレの中は気持ちがいいからさ」 「…妙な科白だと自分でも思わんか?」 「何が?」 「…………」 夜のやってくるような匂い。鴇色をしていた空気が淡い紫色に染まる。海は深く染まったその色で、明るさを残す空との境を分けていた。 「…それで、お前はどうする」 カイトは大理石の台座から立ち上がる。 「何を?」 後ろから尋ねる遊馬の声。 「アストラル世界から託された使命を完遂させるのか」 「もうどうでもいいよ、そういうこと」 振り返ると遊馬は頬杖をつき、穏やかな笑みを浮かべていた。 「アストラル世界の使命なんて世界の一部に過ぎない。それよりちょっとやってみたいことがあるからさ、その時はまた呼んでいいか?」 「何をするつもりだ」 「うーん、世界創成?」 「…馬鹿馬鹿しい」 「どっちにしろ、オレたちが生きていくための世界が必要だ。お前がこの世界と心中したいと言うならばともかく、オレはアストラルがお前に執着した程度にはお前のことを気に入っている」 「アストラルがオレに…執着を?」 「ああ。お前を殺すにしても、そんなのは呼吸器を五分くらい塞ぐか、脳幹を破壊すればいいだけで済むから、お前の生と存在を有意義に用いたいと感じていたよ」 カイトはそれにコメントせず、波打ち際に待機していたオービタル7を呼び出す。音声機能を破損したこのロボットはカイトの命令に瞳を光らせて応えた。飛行モードの薄い翼が夕闇を切り裂いて開く。 「じゃあな、カイト。またアストラルの思い出話をしようぜ」 飛び立つと眼下に、いつまでも手を振る遊馬の姿が見えた。 「死んだ、か」 カイトは夜空にぽつりと呟いた。 「これが、お前への弔いか、アストラル」 思い出話、だと? カイトは夜の洋上を悠々と飛行しながら、苦笑いをした。 煉瓦造りの駅舎はもう遠く、白く輝く大理石の台座の側には金色に輝く姿と浮かび上がる粒子が遠くからも見えた。そこに青白いオーラはもうなく。 ああ、アストラルは死んだのだな、とカイトも思った。
2012.4.15 跳ね箸さんのリクエスト「ゲストラル」。ついったで呟かれるネタを参考に別角度からゲストラルを描こうとしたら、本人が登場しない結果に…。風景のイメージ元はク/ノ/ッ/プ/フの「見/捨/て/ら/れ/た/町」
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