僕のいた世界


 潮騒が聞こえる。午後のぬるい日の下でのろのろと微睡みながら、九十九遊馬はそれを聞く。波がハートランドシティに打ち寄せ、街を侵蝕する。風化したビルは暗い灰色の砂となって海に砕け落ちる。大きな波音が響き、サンルームのガラスを震わせた。
 遊馬はテーブルにつっぷして動かない。だらりと投げ出された手の先には食べかけのパンが載った皿、ペットボトルに半分ほど残ったコーラと空のコップ、それからデュエルモンスターズのカードが散らかっていた。皿の上のパンは朝食の食べかけで、遊馬は朝から一口それを囓ったきり、テーブルの上に俯せになったのだった。
 額に手を触れる。掌の皮膚がちょっと驚くほどの熱だった。全身がだるい。息が熱い。本当はもうベッドで眠りたい。サンルームのソファでもいい。しかしもう動きたくない。
 ――動きたくない。
 遊馬は心の中で繰り返す。
 ――もう何もしたくない。
 だから眠りたいと思う。瞼を閉じて眠りにつけば、きっと次に目覚めることはないだろう。眠っている間に全ては終わる。
 ――怖い。
 それは怖いことだった。
 何もかも怖い。ひっきりなしに聞こえる潮騒。ハートランドシティの内側へ侵蝕する海。外へ出て終わる世界を目にするのも、ここで世界の終わりを待つのも怖い。生きることさえ怖い、しかし死ぬのはもっと怖かった。だから、動けなかった。
 この世界は九十九遊馬の恐怖心から始まった世界だ。遊馬は知っている。自分は大事なものを失った九十九遊馬だ。偽物ではない。本物だが、■■■■■■を失った九十九遊馬。
 本来は可能性に過ぎなかった。頼りなく、可能性の極めて低い存在にすぎなかった。確たる姿を持たず歴史に寄り添う支流。いずれ消えゆく…。
 しかし■■■■■■を失うことによって、自分は世界に存在してしまった。異世界の力がぶつかり合い混じり合った世界で、自分は地に足をつけてしまった。
 ――僕は世界に現れた。
 そのことによって過去は作られ、世界は存在した。曖昧な可能性ではない、確たる平行世界としてあり得てしまったのだ。
 しかしこの世界も、もう終わりだ。本線の九十九遊馬は■■■■■■を取り戻した。歴史の主導権を握り、■■■■■■を持たない遊馬はその過去と共に世界から弾き飛ばされた。しかし、なかったこと、になる訳ではない。存在を始めた世界は、きちんと終焉を迎えなければならないのだ。
 ここは遊馬の世界だ。今、キッチンテーブルの上に俯せ震えている、この遊馬の世界。持ち物は…この世界の根幹はただ一つ。その胸を占める恐怖心。
 ――怖い。
 世界はあからさまな崩壊を見せていた。もうすぐこの家も虚無の海に呑まれるだろう。このまま終わりに向かって生きる恐怖に遊馬は震える。しかし死ぬのはもっと怖い。
 ――誰か助けて。
 微熱で動かない身体をぐったりと横たえ、遊馬は目の端から涙をこぼす。
 ――父ちゃん。
 家の中には誰もいない。
 ――母ちゃん…。
 さっとサンルームが翳った。光が柔らかく濁り、雨音が家を包む。
 暗い灰色に包まれた。世界の終わりの雨が降る。キッチンは暗く沈み、黒い影が床も壁も天井も満たした。
 ――怖いよ…。
 何かをしたい。何か恐怖を紛らわせることを。何かが欲しい。
 遊馬はコーラに手を伸ばした。ペットボトルを傾けると、それはコップを満たさずテーブルの上にこぼれ落ちた。
「あ、あ……」
 ペットボトルが手から離れ、転がる。食べかけのパンも、カードも、自分の頬もコーラまみれになる。遊馬は小さな呻き声を上げて泣いた。カードまでコーラに濡れてしまった。絶望感が心を満たした。もう、恐怖さえ覆い尽くし食べてしまうかのような絶望。
 全て取り返しがつかない。
 何も、どうすることもできない。
 寂しいままに、怖いままに、
 ――僕は、死ぬ?
 空になったペットボトルがテーブルから転げ落ち、床の上で軽い音を立てた。溢れかえったコーラが滝のようにテーブルから流れ落ちた。
「…何を泣いている、九十九遊馬」
 遊馬は涙で霞む目を上げる。
 天井から真っ黒な影が滴り落ちていた。コーラのように真っ黒で、濡れた影。
「この世界の主が何を怖れて泣く?」
 影の中に金色の瞳がぎょろりと現れ、遊馬を見た。
 思わず悲鳴が漏れる。
「ひっ…」
 すると影は大声を上げて嗤った。
「オレを怖れて悲鳴を上げるか! これは傑作だ、遊馬がオレを怖れている!」
 影はぐるりと回転し、腕を伸ばし、一つの形に収斂する。
 目の前に浮かんだのは一つの、ほっそりとした、漆黒の身体だった。奇妙な紋様の浮かんだ整った顔を歪め、金色の瞳を細め、にたにたと嗤っている。
 遊馬はゆっくりと身体を起こした。逃げようとしたが微熱にうかされた身体は言うことを聞かず、椅子から落ちてしまう。派手な音。ひどく尻餅をついた。影の姿は爆笑する。遊馬は俯き、泣いた。ズボンが濡れていた。
「そう怖がるな」
 手が差し伸べられるのと一緒に漆黒の身体の背後から湧き出た触手が遊馬の頬を撫でる。遊馬はまた悲鳴を上げて、尻餅をついたまま後ずさった。
「あ…悪魔…!」
「悪魔? その呼び名もいいだろう。しかしオレにはオレの名がある。ナンバーズ96という名前が」
「ナンバーズ…?」
 聞き慣れない言葉だった。まるでこの世界に存在しないものの名前を呼ぶようだ。
「さあ遊馬、オレの手を取れ」
「どうして…?」
「オレがお前の願いを叶えてやる」
「願い…?」
「お前の願い、望み、お前の欲するものを求めろ、遊馬」
「そんなもの…ないよ」
「オレには何でもできるぞ。あらゆる障害を退けることもできる。お前をいじめた鉄男を潰そうか。それともあのシャークとかいう不良をやっつけるか?」
「やめて、そういうの、何もいらない」
「望みの何一つないはずはあるまい」
「ないんだ…」
 遊馬はのろのろと立ち上がり、壁沿いにサンルームに向かった。ステンドグラスの下、ソファに横になる。
「何も欲しくない」
 するとナンバーズ96は遊馬の枕元に浮かび、高いところから見下ろす。
 雨がステンドグラスを打っていた。その波形の影はナンバーズ96の黒い身体の上にも映った。金色の瞳をした真っ黒な悪魔の身体の上を、赤い波、青い波が流れ落ちる。
「…あの遊馬とは思えんな」
 ナンバーズ96は呟く。
「アレを失っただけで、こんなにもつまらない人間になるのか」
 ■■■■■■を知っているのだ。
「…だから、僕は死ぬんだ」
「まだ死ぬと決まった訳ではないぞ。オレの言うことをきけ。オレと共に世界を壊せば全てが変わる」
「世界ならもうすぐ終わっちゃうじゃないか…」
「オレが望むのはあの宇宙の破壊だ。こんな出来損ないの世界の崩壊とは比べものにならん。お前にも本物の終末を見せてやろう」
「放っておいてよ。僕には何もできない。僕には何の力もないんだ。怖いんだよ、今生きてることさえ怖い。もうやめてよ、もう嫌だよ…!」
 最後は悲鳴のように言うと遊馬は頭を抱えて丸くなった。
 沈黙は雨のように降った。遊馬が泣くなら雨も降る。近づく潮騒を、世界を砕く波音を遠ざけるため。
「遊馬」
 悪魔はひどく静かな声で言う。
「ならば何故、お前はカードを手放さない」
 薄く瞼を開くと、ナンバーズ96の周囲にカードが浮かんでいる。父の形見のデッキ。ガガガマジシャン、ゴゴゴゴーレム…、遊馬が活躍させることのできなかったカードたち。
「だって、デッキは父ちゃんの形見だから…」
「遊馬」
 ナンバーズ96はすい、と下りてくると遊馬の眼前に顔を近づける。
「オレならお前をデュエルで勝たせることもできる」
 その瞬間、遊馬の心に浮かんだもの。急に胸が熱くなり、心が浮き足立った。
 デュエルに勝てる。
「…いい」
「心に嘘をつくな」
「だってもう…この世界にはデュエルする相手もいないんだ」
 自分をデュエリスト失格だと言った鉄男も、自分のデッキを奪おうとしたシャークも、もうこの世界にはいない。
 また遊馬が泣き出すと、ナンバーズ96は黙ってそれを見下ろした。
 雨音でもかき消せないほど潮騒が近づいてくる。俯きながら通った学校も、夕焼けを見上げることもしなかった海沿いの橋も堤防も、オボットが掃除をしていた綺麗な通りも全部なくなってしまったのだろう。
「怖いよ…」
 遊馬は呟く。
「助けて…!」
「ほら」
 にやにやと嘲る声。冷たく黒い指が頬を撫でる。遊馬が目を開けると、悪魔が嗤って自分を見下ろしていた。
「望みがないなどと、嘘だろう?」
「ナンバーズ96」
「何だ、遊馬」
「助けて。僕を助けて」
「いいだろう、遊馬。しかしお前は望みが叶うかわりに一番大事なものを失う」
「一番…大事な…?」
「お前の一番大事なものは何だ、遊馬」
 遊馬の手は何もない胸元を掴む。
「僕には大事なものがないのに…」
「ではお前にあるものは何だ」
 ――僕が九十九遊馬なのは…。
 遊馬の唯一の持ち物。遊馬だけのもの。この世界の根幹。
 ――僕が、僕なのは…
 遊馬の両眼からは大粒の涙が溢れ出す。
「怖い…」
 呆然と唇が紡ぐ。
「怖い、怖い、怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い……」
 呟きは止まらなかった。自分の中身を吐き出すように遊馬は呟き続けた。
 流れ落ちる涙をナンバーズ96の手が拭った。
「怖い」
 唇に触れた指を遊馬は噛む。
「怖い」
 噛まれた指はコーラのように遊馬に飲み込まれる。
「怖い、怖い怖い怖い」
 遊馬の中は流れ込むナンバーズ96で満たされる。内側を満たす影がぐるりと裏返って世界を包み込む。遊馬は瞼を開く。外側に開かれた自分の内側は空っぽで何もない。そこを宇宙の闇のような黒い霧が満たしている。
「こ、わ……」
 恐怖は消えていた。目の前には潮騒も、そこまで迫った海も、世界の崩壊もなかった。
 何もない。
「……………96」
 あの悪魔が奪ってしまったから。
 自分の望みは何だったのだろう。自分は確かに何かを願った。そして何かを差し出した。黒い手が頬を撫でた。僕の名前を呼んで。
「僕…」
 ――僕の名前は…?
「あ………」
 あの悪魔の名前も思い出せない。
 僕は何故存在しているのだろう。
 ――僕…?
「僕は…」
 ――僕は…誰…?
「僕…」
 流す涙も感じる心も失った。
 あるのは空っぽの心。その形さえ失われて…。
「ぼ、く……」
 僕と呼ぶ声さえ霧に包まれて。

          *

 皇の鍵の中にナンバーズ96は墜落する。重たい雨粒のように落ちた身体は、しばらく動かなかった。全身がだるかった。はらんだ微熱が身体を重くしていた。
 砂の上に横たわりナンバーズ96は重たい腕を持ち上げる。掌が涙で濡れている。
「遊馬…」
 その名前を呼んでやり、ナンバーズ96はぺろりと掌の涙を舐めた。






2012.4.14 せらゆかりさんのリクエスト「96ちゃん」。