Proxy the body / Heart's cost


「見たい、と言われた」
 濃い夜の匂いがした。生臭く水っぽい路地の匂いをくぐりぬけ、辿り着いたラブホテルの清潔そうに見せかけた壁の奥から滲み出る濃い夜の匂いだった。淫靡な色をした照明が、空気中を漂う匂いの粒子を照らし出しているかのようだ。空調の音はするのに、部屋は妙に濁っている。
 入った瞬間からそうだった。夜も遅い。少し飲んでからここに向かった。いまだに酒の勢いを要するほど浅い関係ではないが、飲みたいとドロワは言った。彼女からそんなことを言うのは珍しい。いつものカクテルではなくワインを一杯、二杯と空けた。
 ゴーシュはベッドの上の女を見る。裸の膝を抱え、じっとつま先を見つめている女。カウンターで染まっていた頬も今は白い。琥珀色の瞳には酔いの気配は微塵もない。
「何を」
 尋ね返す。その声は素っ気なく、白々しくさえ聞こえた。
 ドロワは揃えて並べた自分のつま先をじっと見つめ、顔を上げなかった。
「セックスを」
 そう答える間も、表情一つ変わらない。
「誰が」
 本当に見当がつかぬかのように尋ねた。声には呆れさえまじえてみせたが、実際はそれもこれもみな演技にすぎない。
「Mr.ハートランド」
 ドロワがそう答えるのを最初の瞬間から予想していた。
 インナーを脱ぎ捨て乱暴にベッドに腰掛ける。ゴーシュの巨体が乗ると、それなりに丈夫なベッドも軋んだ。ドロワはこちらを見ようとしない。
 わざと口元をにやけさせた。
「そういうプレイか?」
 かうように口にする。
 すると背後でカッと感情が燃えた。
「妙な勘ぐりをするな! 私とMr.ハートランドは、そんな……」
 普段は冷静のお手本のように、声を荒らげることなど滅多にないドロワが食ってかかる。予想通りのリアクションではあったので、ゴーシュも
「あーはいはい、分かったから怒るなよ」
 と口先で謝りながらいなす。
 語気そのままに歪む口元も、仇のように睨めつける視線も、普段彼女の感情豊かな表情を見ることが少ないゴーシュにとってはちょっとした味だったが、ドロワ本人にとってはそういう自分自身さえ不快なようで、彼の前でなかろうと口は慎め、とまだ収まらぬ怒りを無理矢理抑えつけるように言った。
「分かってる」
 しかしそう答えながら実際がところゴーシュは勘ぐるどころではなく、確信さえ抱いた。
 お前とMr.ハートランドとの間に関係がない、だと?
 ドロワと関係を持つようになったのは勢いというか、それこそノリのようなもので、月に何度かの逢瀬があり――逢瀬だ?仕事で四六時中くっついてんのに――身体の方はよく知るようになったが、心はともかく、と棚上げしたままだ。
 信頼はしている。仕事の相棒としては男女を超えてもこの女しかいないと思う。ゴーシュも自分の性格を自覚していない訳ではない。ドロワの手綱さばきは大したものだ。逆にドロワ一人では飛び込めない場面もあるから、自分達はバランスよく組まされている。
 そうだ、自分達を組ませたのはMr.ハートランドだ。
 初めて寝た夜から胸の奥にあり、口に出さずにいた疑問がある。それは今、確信に変わった。
 ――別に。
 ショックではない。思いの外、不快だったが。
「バレたのか、オレ達のこと」
 取り敢えず事実を確認したい。大して隠すこともしてこなかったが、おおっぴらにするほど気配を振りまいた覚えもなかった。まして直属の上司に知られるようには。
 夜の中に黙って織り込まれた関係。
「知られている」
 ドロワの視線はまた自分のつま先に落ちる。
「で、罰か。嫌がらせ?」
「…ただ、見たい、と」
「そりゃ断れるようなモンなのか。例えば」
 言葉にする前に、いかがわしい光景が脳内を通り過ぎる。
「オレが断れば、お前は他の男と…」
「Mr.ハートランドは、私と、お前が、するのを見たいと」
「命令か」
「拒否権はない」
 それはそうだ。Mr.ハートランドと言えば二人の手綱を握る男。ハートランドシティのハートランド。ハートランドのMr.ハートランド。権力を持つ者。
 最初から自分に断る権利など。
「やれやれ」
 わざと疲れたような声を出す。
「残業代とか出るのかね」
 すると珍しく、ふ、とドロワの笑う気配がした。
「金で自分の身体を売るのか」
 振り返ると、わずかに眉を寄せその下に笑みを刷くドロワがいる。
 まるで憐れみか嘲りのような笑み。
 お前はどうなんだ、という言葉を飲み込みゴーシュは脱ぎ捨てたインナーを拾い上げる。
 淫靡な色のライトに照らされた壁紙、部屋の空気も今や白々しい。まるで最初に尋ね返した自分の声のように。今夜は最初からこうなる予定だったのだろうか。アルコール。ホテルの部屋で密談。極秘命令に戸惑う部下と、それを見つめる冷血女、か…。
 だが。
「しないのか?」
 ドロワはまるで当たり前のことのように尋ねた。
 意外な言葉に、思わずまじまじと見つめ返してしまう。その表情にも裏がなかった。ここまできていつもならしたであろうことをしないゴーシュを不思議そうに見上げている。姿勢が崩れ重たく垂れる胸が露わになった。それから撫で心地のいい太腿も、陰りも。
 ベッドに戻り押し倒せばされるがままで、いつもどおりのドロワだ。
 その期待に応えるように、いつもどおりの手順で抱いた。
 いつもどおりの反応。積極的ではないが、覚えた快楽には素直な身体。
 ――これは予行練習か、ドロワ。
 目を伏せ声を殺す女を見下ろし、そう尋ねたくなるのをゴーシュは我慢した。

 上昇するエレベーターのガラスの壁面からは雨にけぶるハートランドシティが見下ろせた。
 低い灰色の空から雨は静かに降り注ぐ。無音の音が包み込むような、静けさを耳に詰め込まれるような感覚だった。
 ドロワの表情は常と変わらず、腕を組み景色に背を向けている。
 木曜日。夕暮れを前に雨は降り出した。
 その日は急にやって来た。仕事を一段落させた二人はハートランドの塀の外に建つホテルへ、ハートランドシティを睥睨するようなビルの上階へ向かった。
「望むなら手当を出す、とのことだ」
 不意に言われ、ああ、と呟くように返事をした。
 先日の問いへの答えだ。ドロワは自分がこれこれこうの質問をしたと直々にMr.ハートランドへ尋ねたのだろうか。いつの間に? オレの知らない夜に、それこそベッドの上で、か?
「お前は」
 短く、興味なさそうに尋ねる。
「別に」
 それに対してドロワも短く、全く興味のない様子で答えた。
 望みはない。代わりに何を手に入れようとも、どうでもいい。ただ命令に従うだけなのだ、ドロワは。冷たくひえきった視線が上昇する数字だけを追う。ホテルに一歩踏み込んだ瞬間からドロワは自分を見ようとしない。
 ――これから、この女を抱く。
 初めてのことでもないのに、改めて知らされる事実を突きつけられた。
 この冷たい瞳が閉ざされる。スーツで押さえつけた胸が露わになる。タイツの下の白い脚。これから、この女の全てを晒す。
「金なんか…」
 金で売るのは自分の身体ではない。お前の全てだ。
 そう言ってドロワの細い手を取り、今にもエレベーターから飛び出したい衝動に駆られた。一瞬のことだった。一瞬の熱情が去ると今度は現実が押し寄せ、胸の中で膨らんだものが急にしぼんだ。
 ここでドロワと逃げて何になる? 現在の地位――まあ別にどうでもいい――と、デッキ――借り物のフォトンはともかく、プライベートデッキを失うであろうことは痛い――、追われ者の生活、ドロワの罵倒――何となく想像がつく――…。映画のラストシーンで駆け落ちした二人が上手くいくはずもないのと同じことだ。現実的ではない。金はともかくデュエルを捨ててまでこの女に懸けることは、まだできないのだなと思った。
 エレベーターが止まるとドロワが先に廊下へ出た。ゴーシュは細い手首を捕まえ損ねた自分の手を見下ろし、一瞬の熱情を、その余韻を振り払った。
 ――ドロワを抱く。
 いつものことだ。
 最上階はおそらく一室しかなかったはずだ。そのドアの前に立ちドロワはやはり毅然としている。というか、平生と変わらぬテンションでこれから仕事が始まるようにしか思えない。いや、これは仕事だ。残業。ここまで来たのだ、ぐだぐだ言うな考えるな腹を決めろ。
 ドアが開いた。
 曇天が近い。いっそ明るくさえ感じる室内。椅子に腰掛けたシルエット。
「お待たせいたしました、Mr.ハートランド」
 ドロワが声をかけると、シルエットは立ち上がり両手を広げた。
「時間通りだ。よく来てくれたねドロワ。それにゴーシュ」
 Mr.ハートランドは本心の窺えぬいつもの胡散臭い笑顔で二人を出迎えた。
「ご命令とあらば」
 応えてはみたものの、声は弾力のない空気の中に霧消する。
 早速ベッドかと思いきや、促されたのはディナーの用意されたテーブルだった。
「夕食を摂る暇もなかっただろう。すぐに呼び出してしまったからね」
 遠慮なく、と言われ遠慮なく振る舞うことが出来るのがゴーシュだ。有り難く、いつも口にすることのできないそれらをいただく。とは言え、舌鼓を打つほど暢気でもない。
 目の前のドロワは感情なく機械的に料理を咀嚼していた。味わっているようには見えない。酒を口にする時でさえ、まだ表情があったはずだ。
 Mr.ハートランドは離れた場所に椅子を据え、自分達に、いやドロワに視線を注いでいる。
 ――そりゃそうだ。
 むくつけき男が飯を食っているところなど見ていて面白いはずもない。
 ――本番はこの後…。
 ナイフとフォークの音だけが耳を打つ。現実味を帯びた音、本物の料理、しかしMr.ハートランドの視線とこの静けさにより、この部屋は現実の位相からズレつつある。
 ふと、ドロワと視線が合った。
 ほんの数秒のことで、彼女はすぐに目を伏せる。
 目の前のこの女は現実だ、とゴーシュは言い聞かせる。
 ――オレはこの女を抱く。
 いつものように、とはいかないのだろう。
 そう言えば分かりきったことだった。

 広いベッド。糊のきいた皺一つない真っ白なシーツ。その前に立つ自分は道化だ、ドロワは生贄だ。きっとそうだろう。
「君が脱がせなさい」
 Mr.ハートランドの口調は飽くまで柔らかい。しかし抗いがたい、それは命令だった。
 ――元より拒否権などない、か。
 ゴーシュはドロワの服に手を掛けながらその行為に新鮮さを感じている。初めて、ではない。がむしゃらにその服を脱がせたこともあった。だが、そうかどれもこれも勢いまかせで。
 自分の指先をドロワが見つめている。視線から棘がとれているのをゴーシュは感じる。柔らかい。生温かい体温さえ感じる。吐息ほどのぬるさ。
 スーツを脱がせ、あの脱ぎづらいインナーを彼女の手も借りて剥ぎ取り、下着を。ベッドに腰掛けたドロワの脚からタイツを抜き取ると、眼前に白い脚が迫って思わず口づけをしたくなった。Mr.ハートランドの視線さえなければしていただろう。
 いや、この視線はそれを促しさえしているのか。自分がそのような行為に走るかどうか、じっと見守っている。息を詰めるような切迫はない。観察ほど冷たくもない。雨の無音のように包み込む視線。
「次は君の番だ」
 ドロワは返事をしなかったが、ごく自然にゴーシュに向かって手を伸ばした。
 上着が床に落ちる。シャツが。手が腹の上を滑ってインナーが捲りあげられる。反射的に背筋に痺れが走った。いつもと違うドロワの手。触れる温度が、角度が、滑るスピードが違う。掌を通じてドロワが自分の肉体を感じているのが分かる。彼女は改めてゴーシュに触れている。今まで何度も重ねてきたはずの肌を、まるで初めて触れるように、あるいは思い出すように。
 そしてその指がベルトに触れた時。Mr.ハートランドは何も言わなかった。例えば仕草や何かで促した訳でもなかったし、何よりドロワは彼に背を向けていた。
 しかし彼女は椅子の上から見つめる男の望むことを、背中に受ける眼差しから正確に感じ取り、知った。
 掌が服の上からそっと押しつけられる。頬が、唇が。それから自分のものが取り出され口づけされるのを、ゴーシュは黙って見下ろした。
 口で、など。
 一度そういう行為を持ちかけたときのドロワの顔といったら、今でも忘れられない。驚愕、嫌悪感を経て、呆れが最終的には愚か者を見下ろすようなものに変化した。そのくしゃくしゃに歪められた緊張から呆然と弛緩するまでの百面相は、思い出すたびに笑いがこみあげたものだが、今は喉の奥をくすぐりさえしない。
 躊躇なく自分のものを口に含むドロワを見下ろし、ああそうかオレのものは嫌でも、この上司のものなら、と勝手に合点した。当の上司をちらりと盗み見ると、Mr.ハートランドは穏やかな微笑を浮かべ最初に椅子に腰掛けた姿勢のまま、だ。つまり奴にとってドロワは自分の女、でさえない。所有物なのだろう。だからこんな遊興を企てた。
 ――勿論、お仕置き、だ。
 ドロワの舌は巧技ではなく寧ろ下手で、慣れていないのかもしれないとも思う。奴とはどうだろう。真っ当なセックスだけをするのだろうか。
 いつものベッドの上では淡白で、時にはおぼこい素振りも見せるドロワだから、この手の行為には慣れていないとしても、想像の範囲内ではある。逆に自分以外の男と――特に目の前のこの男と――激しくもつれ合う様など、勘ぐりはしても想像がつかない。
 堪えながら咳き込む音。ドロワが口を離し、息をついている。だらしなく開いた唇から唾液が伝い、彼女はそれを飲み込むことも拭うこともできず、緩く勃起したそれを目の前に浅い呼吸を繰り返すばかりだ。
 思わず、手が伸びた。
 ゴーシュが髪に触れるとドロワの肌は一瞬驚きの反応を示した。指先が静電気のように、パチリとしたものを感じる。ゴーシュは引こうとするドロワの髪を撫で、頬に掌を滑らせた。口元の唾液を拭うと、ドロワはそのまま誘われるようにまた唇を近づける。
 キスし、先端を一度口に含む。持ち上がった手が長い前髪をどかす。その時に覗いた舌の淫靡さが、直接触れる感触よりもスイッチを入れた。
 見られていようが、強制されたものだろうが、構うか。
 続きをしようとしたドロワを引き離す。勢いに、大きく開いた唇からぽたぽたっと唾液が落ちた。
 視線が合った。どれほどの時間かは分からなかった。じっと長い時間見つめ合っているような気分だった。互いに息が上がっており、ドロワの頬は紅潮していた。自分の顔にも情欲が現れていただろう。
 ドロワが綺麗な両手の白い指で硬くなったそれに触れ、ふ、と微笑んだ。

 細い悲鳴が途切れ、雨音が蘇る。
 ベッドの上はぼんやりと暗い。雨雲の向こうの日も落ちたのだろう。夜の暗がりがじわじわと部屋を侵蝕していた。
 イッたばかりのドロワはぐったりと天井を仰いでいる。瞼がゆっくりと伏せられ、一際大きな息が吐き出された。ゴーシュは射精がまだで、このまま脱力した女の身体を揺さぶることもいつもなら平気でやるが、しかし今日は状況も状況だ。自分のイク様など、わざわざ弱点を見せることもない。Mr.ハートランド、上司以前に自分と同じ男という存在だ。
 柔らかな彼女の肉に名残惜しげなそれを引き摺り出す。冷たいシャワーでも浴びればいい。ともあれ、これで終わりだ。
 ぽん、と手を叩く音がした。
 ゴーシュはぐったりと伏せていた顔を上げた。暗がりの中でドロワが瞼を開いた。
「すっかり暗くなった。ゴーシュ、明かりを」
 平板な声音。
 暗がりの中から、ぼんやりとしたシルエットになったMr.ハートランドが命じた。
 ――まだ、続くのか。
 ゴーシュがベッドサイドの明かりを点けると、ふわりと闇が散り、白いシーツの上に何も隠そうとしない裸体のドロワが横たわっているのが改めて見えた。持ち上げられた両腕。身体の伸びで形を変えた乳房。脚を開いたままなのは恥ずかしかったのか、膝を内側に曲げている。
「もう疲れたかね、ドロワ」
 優しげな声が響くと、ドロワの指先に意志が宿り、彼女はゆっくりと身体を起こした。
「…いいえ」
「彼が、まだ最後まで達していない」
 Mr.ハートランドの声も言葉も、まるで優しくいたわるように響く。それは勿論、絶頂を迎え損ねた自分へ向けたものではない。
 ドロワが小さく頷いた。
「分かりました…」
 オレは別に…、と遠慮する間もなくゴーシュはベッドに押し倒される。その上にドロワが跨がった。
 裸が、その胸も、臍のラインの美しい腹も湿った陰りも、全てMr.ハートランドを向いていた。
 ドロワが視線を俯ける。内股が震えている。ゴーシュに添えられた手も。彼女はゆっくりと腰を下ろし、自分でそれを収めようとしていた。初めてのことだ。ドロワが自分から上に乗るなど。
 先端が触れる。いつもの感触と違うのか、不安からか、眉根が拠り唇がきゅっと引き結ばれた。
 その時、
「エスコートをしなくては」
 Mr.ハートランドの声に促されたのが非常に癪だった。
 ゴーシュは震えるドロワの尻に手を添える。ドロワは唇を開き、溜息のような声を上げた。大きく広げた脚が、震えながらゆっくりと二つの身体を近づける。
「ああ、あ……」
 吐く息は艶やかな嬌声となって夜の落ちた部屋に響いた。
 とうとう根元まで飲み込んだドロワは顔を上げた。
 眉間の皺が消える。唇が綻ぶ。それが微笑を形作る。
「あ…んっ」
 瞼を伏せても、その微笑は消えなかった。
 ドロワは自分で腰を動かし始める。はじめは間合いを計るようだったそれも、重ねるにつれて次第にそれらしくなってゆく。自分でいい場所を見つけられたのだろう。そこに擦りつけるように腰を動かす。もうゴーシュを見てはいない。
「あっ、ああっ、ああっ…」
 あられもない声を上げ行為に没頭する様はこれまで想像さえしなかったもので、ゴーシュは現実離れした何かを感じた。自分の感情さえ現実離れし始めているのだった。
 彼はドロワに圧倒されていた。彼女の肉体に、彼女の声に、彼女の熱情とも呼べるものに。そして彼女に包まれた自分自身も否応なく昂ぶってゆく。
 抗うことはできなかった。びくびくと身体を震わせ射精する。声は辛うじて殺したものの、酷い形相だったろう。するといつの間にかドロワの瞼が開いていて、自分を見下ろしている。まだ腰を動かしながら、彼女はうっとりと呟く。
「いい……」
 不意にカッとなった。肉体の興奮はどちらに起因するとも分からなかったが、嵐のようなゴーシュの内部でその区別はもうない。
 下から突き上げるとドロワは身体を仰け反らせ、あっ、と悲鳴を上げる。突き上げるたびにぬめる水音と肉体のぶつかり合う音が響く。深くまで繋がるのが、分かる。ドロワの手が縋るものを探して彷徨い、結局顔を覆い髪の毛を掴んだ。
 ドロワが果てても、ゴーシュは止めなかった。ぐったりとベッドに伏せた彼女の腰を持ち上げ、後ろから征服にかかる。
 弓なりにしなる女の背中を見下ろす。ふと鼻の奥に蘇る雨の匂いは記憶か、それともドロワの身体から滲み出る汗はこんな匂いをしていただろうか。腰の黒子はおそらく彼女も知らないもので、淡い光の下では青いインクのペン先を刺したように見えた。これも、眼鏡の向こうで目を細めるこの男の知るものだろうか。
 シーツに顔を伏せながらドロワは喘ぐ。ゴーシュは無理矢理その身体を持ち上げると、自分が揉みしだく乳房も、暗い陰りに覆われた接合部も全てMr.ハートランドの前に露わにした。
「ああっ……」
 ドロワの悲鳴はそれを知ってのものだろう。手足に力が蘇るが、そもそも腕力で敵うはずもない相手にこの状況で抗うことなどできない。
 ――見ているのか、Mr.ハートランドを。
 首筋に噛みつきながら、怒るように胸で囁く。
 ――残念だが、お前を抱いているのはオレだ、ドロワ。
 オレがドロワを抱いている、と思う。またひどく興奮した。
 シーツの上に崩れ落ちるドロワの身体を、ゴーシュは最後まで貪った。

 シャワーを先に浴びろという指示――命令――の下にバスルームで冷たい水に打たれて佇んだ。
 今やゴーシュの内部は沈静化していた。冷静に見世物を、自分達のまぐわいを思い返していた。
 ――Mr.ハートランドなど関係ない。
 強く確信する。最後のそれは自分とドロワのものだった。たとえドロワの目にMr.ハートランドが映ったとしても、否、映ったからこそMr.ハートランドと彼女は隔てられており、ドロワは自分のものだった。
 ――ざまあみやがれ。
 あんたは楽しんだかもしれないが、これはオレの勝ちだ。
 身を裂く程に冷たくひえたシャワーさえ心地良い。
 これからは隠すことなく付き合ってやる。寝取ってやる、と表現したっていい。ドロワはオレのものだ。
 それにゴーシュの心も今やドロワのものだった。ゴーシュは思った。他の女とは別れる。次に何かあれば、この女の為にオレは何だって投げ出せる。金も地位も、きっと命も。
 シャワーを止め、髪を後ろに撫でつけた。
 乾いたタオルに触れると、そのぬくもりがまた違う世界のようで、背後の冷え冷えとした浴槽が懐かしくなる。
 ――オレは現実にいる。
 ゴーシュはドアに手を掛ける。
 ――が、何も恐れることは……。
 ドアが薄く開き、その隙間から漏れてきたのは、雨音でも夜の遠いざわめきでもなかった。二人の人間の穏やかに話し合う囁き声だった。
 それが止む。ゴーシュの手は扉を押し開く。
 夜の暗がりの中にやわらかく浮かび上がる姿。ドロワはベッドの上、シーツを身体に巻きつけ胸元を手で隠していた。
 その傍らに腰掛けているのはMr.ハートランドで、彼はまるで聖者のような仕草でドロワの前髪を掻き上げ、露わになった額に口づけを落としているところだった。
 ドロワの表情は。
 こんなドロワの表情を、ゴーシュは見たことがなかった。仕事で四六時中一緒にいても、ベッドを共にしようとも、だ。
 その顔は聖者に抱かれた幼子のように静かで、穏やかで、安心しきっていた。そして額に触れた唇の心地良さに微笑がふんわりと、花開くように浮かび上がる。
 その瞬間にゴーシュは悟った。
 ドロワが言ったことは嘘ではなかった。ドロワとMr.ハートランドの間に肉体の関係などなかったのだ。二人の間にあったのは、ただ、ただ…。
 そして直感的にゴーシュは知る。今、聖者のような口づけを落とした男は、ドロワどころかどんな女も抱くだけの機能を具えていない。恐らく不能…勃ちやしないのだ。それでも。それなのに。この男は。
 ――心理学、だったか。
 脳が勝手に考え出す。
 代償行動というものがある。性的不能者がその充足を得ようと行うアレだ。ナイフ、などはその代表格だが。
 ――オレは…、
 ドロワを抱いたのは自分だったのか。
 ドロワが抱かれていた男は。
 ――オレは……?
 冷水の冷たさが、ずん、と脳に響いた。
 Mr.ハートランドがこちらを向く。何かを言っているが聞こえない。
 それからドロワが立ち上がり、自分とすれ違いに浴室へ入っていく。生温かい体温とすれ違う。額に落ちた口づけの匂いさえした。
 首筋や耳元を叩くのは水音だろうか。温かいシャワーの音なのだろうか。
「ゴーシュ」
 名前を呼ばれ、我に返る。
「顔色が悪いが」
「ああ、いえ……」
「身体を冷やさないように。明日の仕事に支障が出たら困る」
 ワインでも、と促され、また現実の隙間に落下するような心地がした。
 ――夜、だ。
 窓の外はハートランドシティの夜景、塀に囲まれたハートランドで輝くタワーの光。全て雨に滲んでいる。
 ――木曜。夕方から雨が降り出して…、
 ゴーシュは差し出されたグラスを受け取った。Mr.ハートランドが自分のグラスと縁を触れ合わせる。
 澄んだ音が響く。揺れるワインの水面。
 ――夢、じゃねえ。
 悪夢と呼ぶには相応しいかもしれないが、もうここがどこであれ、道化の自分は操られるままに踊る他ない。
 いつの間にかグラスは空になる。
 右手がふらりと傾くと、そこにまた新しいものが注がれた。深い赤。
 ――神の血か。
 オレにとっては、オレだけは、これはあいつの血だ。
 ゴーシュはワインを飲み干した。窓の外では雨が、背後ではドロワの浴びる温かなシャワーが柔らかい音を立てていた。いつまでも降り続いていた。






2012.4.4