拡張現実のコーダ


 暗い通路に青白く光る数字が浮かび上がる。
 夜を思わせる青い闇。事実、時刻としては真夜中とも夜明け前とも言いがたい時間をしていた。夜景の灯も落ち、ハートランドシティにはこれと同じ色をした自然の闇が落ちているに違いない。
 タワーの中、人工的に作られた闇は安らぎのためのもので、仮眠休憩用のポッドが左手の壁一面を占めている。床に浮き上がった数字は空きポッドのナンバーで、それを見るだに半分近くが埋まっているようだった。
 WDC予選二日目を終え、明日は最終日となれば職員は家に帰る暇もない。世界中から集まったデュエリストの多くがハートランドの内部に宿泊している。夜勤も増員されていた。
 ゴーシュがここに来たのは、幹部に使用を許可された上階の部屋まで行くのが単純に面倒だったからだ。移動する時間があれば、少しでも眠りたかった。とにかく今日は…色々なことがありすぎた。ナンバーズのオリジナルとの遭遇。ハルトの脱走。ついでに不幸に見舞われた下半身など。先ほどMr.ハートランドへの報告も終え――流石に下半身の件は不要事項だ――、だがしかし数時間後にはまた顔を合わせなければならない。
 心は決まっているのだろう。
 ポッドの入口がスライドし、すぐに現れたマットレスに腰掛ける。上着を脱ごうとし、それくらいならランドリーサービスに突っ込んでくればよかったのだと、ここに至るまでに見かけた白い窓口に思い至る。が、今更来た道を引き返すつもりもなかった。靴だけを脱いで、ポッドの内部に横になる。足下でドアがスライドし、遮光の深い青に染まる。通路ではナンバーが一つ消えたはずだ。
 ポッド内にはまだ暖色の間接照明が灯っていた。操作パネルに触れ明かりを落とそうとして、ふと意識が、手が滑る。ARヴィジョンとリンクさせると、電子音声が用件を尋ねた。
 モーニングコールや睡眠用のリラクゼーション音楽だけではない、そっち系の動画も再生可能だ。
 サカっている訳ではない…と思った。下半身の鈍痛も思い出せば消えておらず、今触るのが得策とも思えなかった。ただ、瞼の裏に残る女の姿。どんなコンテンツを再生してもその中にはいない女。生身の女。かつてただの冷血だと思っていた、あの女。
 ドロワへの思いが、執着のように湧き上がる。
 ベッドの上ではそれなりの関係を繰り返してきた。が、同僚は同僚だ。ゴーシュとドロワ。この対のような名前と共に、Mr.ハートランドに仕える者として。
 しかし九十九遊馬という少年が、ナンバーズのオリジナルが最後の攻撃を仕掛けた瞬間、何を考えたのか。
 同じことをドロワも尋ね、自分はノリだと答えたが、それ以外のなにものでもない。
 あの瞬間。
 ドロワが不意に襲いかかった死に恐怖し、両腕で庇う姿を見た瞬間。
 言葉ではなかったが自分はドロワのためなら命を投げ出しても惜しくなかったのだろう。あの女のためならば、攻撃力7600も恐れるものではなかった。痛み、恐怖、何もかも。それに勝ってドロワを失うということは自分を突き動かす耐え難いものだったのだ。
 結局生きてはいるが…。
 ゴーシュはコンテンツ一覧を消して、アラームを三時間後にセットする。深く眠って目覚めれば、ドロワはまた自分の隣にいるのだろう。十分だ。
 明かりを落とすとポッドの中も深い闇に満たされる。片隅には時計のデジタル表示が青白く浮かんでいた。どうせアラームは鳴るのだ。微かな光さえ煩わしく消そうとすると、ポン、と神経をノックするような電子音が響く。CALLの文字。
 呼び出しの明滅が数秒続く。ゴーシュは無言で光る文字に触れ、応答する。
『ゴーシュ』
 耳慣れた声が枕元から響く。
『映像が表示されないな。今、どこに』
「仮眠ポッド。そろそろ寝るところだ」
『わざわざそんな所に…』
「上までのぼる時間が惜しい。何か用か」
 仕事の話なら別れる直前までしていた。明日も起きて顔を合わせればその第一声から始めるだろう。
 ルールはシンプルなものを幾つか。ベッドの上で仕事の話はしない。
『ARヴィジョンに繋げ』
 短く命令された。仕事の科白と変わらない冷たさ。
「おおせの通りに」
 ふざけてMr.ハートランドの口調を真似すると、向こうが沈黙する。ウケなかったか、機嫌を損ねたか。
 備え付けのDゲイザーをセットしリンクすると闇は薄青い色に変わり、ここが拡張現実の視界であることを示すように英文で書かれたステータスやその他情報が浮き上がる。
 不意に狭いポッド内部が淡い光に満たされる。
 ゴーシュは、おい、と呟き思わず身体を起こそうとしてポッドの狭さにそれを阻まれた。
 ARヴィジョンのドロワが自分の上に覆い被さっている。手や足の先はゴーシュの身体を突き抜けてしまって、まるで埋まったか溶けたかのように見えた。ちょっとした恐怖映像だろう。
 表情はムッとしている。やはりさっきの物まねがお気に召さなかったようだ。
『…狭いな』
 知っているはずだろう内部を見回してドロワが呟いた。
「寝るだけだ」
 ゴーシュは答える。
 そう、精々三時間眠って、それから改めてご対面のはずだった。
 顔を合わせれば仕事の話を。いつものように。いつも通りに。
『今日は…』
 正面からゴーシュを見下ろし、ドロワは唾を飲む。喉の動くのを、ゴーシュは真下から見上げる。
『あのデュエルの礼を言っていなかった』
「ノリだよ、ノリ。オレが好きでやったこと」
『なら礼をするのも私の勝手だろう』
 急にドロワの顔が近づいて、鼻先で止まる。
 ゴーシュも驚いて目を見開く。
『目を…』
 瞑れ、と言いたかったのだろうか。しかし今のゴーシュにとってドロワは生身ではない。それはきっと上階の部屋にいるドロワにとっても。
 本当ならば胸板の上でドロワの身体を支えたはずの腕は仮想現実の中でゴーシュの身体を突き抜ける。勝手が悪い。いつもの距離感ではない。
 目を開いたまま、ゆっくりと唇が近づいた。
 感触も、温度もない唇の接触、まがい。
 唇が微かに動く。
 ありがとう、とキスの距離での囁き。
 気配も吐息さえないが、触れ合ったように見せかけた距離を感じ取ったドロワは瞼は伏せられ、睫毛が震えるのもはっきり見えた。
 思わず抱こうとした腕が空を掻く。ゴーシュはじろりと薄闇の端で光るデジタルの数字を読む。
 アラームが鳴るまでの時間を考えるのは止めた。ドロワ、と小さな声で叫び、どの部屋にいるかを聞き出す。
『ゴーシュ…?』
「今から行く。待ってろ」
 肩を抱いたはずの手が突き抜けているのをドロワも見下ろす。
 小さく頷くのと同時にARヴィジョンとのリンクが切れ、ゴーシュはドアがスライドするのも待ちきれず蹴るようにしながら狭いポッドを出た。
 エレベーターで上階へ。非常灯だけが青白く照らす通路を、ドロワの部屋へ。
 足音を聞きつけたのか待っていたのか、前に立つとドアが自動のように開いて目の前に立つドロワが両手を伸ばす。
 歯のぶつかる音。しかしもう気にはしない。痛み以上のものが二人の間にはある。
 ドロワの身体を押して暗い部屋の中に入り、閉じたドアに手探りでロックを下ろす。
 カーテンの開いた窓と、部屋の中のシルエット。キスをしながらドロワは蹌踉めいて、二人の身体は何度か入口付近の狭い壁にぶつかり、ゴーシュは抱き潰すかという勢いで彼女の身体を抱きしめた。
 ゴーシュは勿論、息苦しさから空気を貪りながらのドロワもキスをやめる気は毛頭ないらしく、その熱と求めに鼻で息をすることさえ教えてやれない。
 すぐ側にあるベッドに辿り着く前にドロワの服を脱ぎ散らかさせ、肌の匂いにまだシャワーを浴びていないのだと思うと、その首筋に噛みつきたくなり、それを堪えなかった。
 首を噛まれながらドロワの膝からは力が抜ける。それを支えながらも、いつも軽い彼女の身体の重量をずっしりと感じ、ベッドの上に倒れ込む。
 タイツを脱ぐのをドロワは積極的に協力した。その手つきに興奮が煽られて、まだ膝でわだかまっているのにキスを再開すると、飼い犬にお預けをするように引き離された。
「お前は大丈夫なのか」
「何が」
「何がって…お前のことだろう?」
 ドロワの手が太腿の上に触れる。
 思い出せば消えてはいない、鈍痛。
 ゴーシュが一瞬取り戻した冷静によって離れると、ドロワはタイツを脱いでしまい最後の下着一枚で、どうなのだ、と尋ねる。
 馬鹿馬鹿しい話のように聞こえるが、男が性器を打撲するのはよくあることなのだそうだ。特に性交中は。
 そう言うとドロワは珍しく吹き出して、すまない、と笑いを滲ませたまま謝る。
「笑ったな、覚悟しろ」
「覚悟していいのか?」
 勿論だと言えるノリならばよかったのだが。
「悪いのはあの九十九遊馬とかいうガキだ」
「人のせいにするとはらしくない」
「オレは悪くない、このノリに関しちゃな」
 するとドロワは手を滑らせ、男の蹴られた場所に触れる。
 上目遣いに見上げる瞳。それが伏せられ、ズボンの上から彼女はなにか大切なものにそうするようにキスをした。
 痛みが響く。ゴーシュは奥歯を噛んでそれに耐える。
 一生使い物にならない訳ではないが、とにかくこの大事な夜は見事に邪魔された訳だ。
 拗ねたゴーシュが上着さえ脱がないままベッドに仰向けになると、そこへドロワがよじ上る。
 胸板の上に手を置いて身体をささえ、近づく顔。
 洋服越しに押しつけられる豊満な胸。瞳はじっと自分を見つめて離さない。抗わないことは分かっていた。ゴーシュは身体を挟み込む肉づきのいい太腿に手を伸ばした。
 くすぐったさに漏れる吐息。
「ありがとう」
 囁かれる声。
 重ねられる唇が唾液に濡れる。
 ゴーシュは手を滑らせドロワの腰を抱く。いつの間にか身体はぴったりと重ね合わせられていて、ドロワの手はゴーシュの頭をぐちゃぐちゃにしていた。
 いつの間にか鼻で息をすることを覚えている。口づけは長く続く。

 抱き合ったまま、一時間か二時間寝た。
 交わしたのは短い言葉。ベッドの上で仕事の話はしない。しかし人生の話ならば。
 ドロワの右手が伸びる。ゴーシュの左腕をさすり、それから手首のブレスレットを撫で、手はしっかりと握り、組まれる。
 夜明けを前に、まだ闇は青い。






2012.3.10