Thankfull day, thank you


 よく晴れた金曜日。オレを取り巻く環境も運命も宿命も、まるでこの一瞬だけ社会の日常と一致してしまったかのような三月九日、卒業式を迎える。
 弟であるハルトとの穏やかな日々を取り戻す為だったらキャラメル一つをポケットに脱走もするし、ナンバーズ狩りもやるし、フォトンの力も手に入れるし、Dr.フェイカーが言うように人間をやめる勢いのオレが何故、卒業式という世俗的かつ公共的な行事に参加しているかというと自分の卒業式で、何故そんなことになっているかというとオレもハートランドシティの学校に通ったからだ。あの九十九遊馬も通う学校に。
 本来敵である人間と同じ学校に通い表面上の穏やかさを保ちつつ、裏ではデュエルと異世界科学とアストラル世界の戦いを続けたどこぞのロボットアニメのような展開も今日で終わり。さっき卒業証書ももらった。もうここに来なくてもいいかと思うとホッとする。
 ホールでは粛々と式典の続きが執り行われ、オレは同級生――と思ったこともないが――に混じって校長の話を聞いている。この後は来賓であるMr.ハートランドの祝辞だ。ちらりと視線を遣ると、来賓席にはMr.ハートランドとDr.フェイカーが隣り合って座っている。Dr.フェイカーの隣にはハルトが座っていて、椅子を取られた別の来賓――市議会議員のはずだ――が所在なげに立っていた。何をやっているんだ、奴らは。
 ハルトは早くも飽きてきたらしく、Dr.フェイカーに何かを話しかけている。そうだよな、ハルト。兄さんの見せ場――卒業証書授与、そこ数分――はもう終わっちゃったからな。兄さんは首席で卒業するものの、挨拶が面倒で答辞の役目は蹴ってしまったんだ。お前が来るなら感動的な答辞を考えて全員の前で読み上げたのに。
 Dr.フェイカーはハルトの手を取ってどこかへ行く。空いた席に座ったのは二人の市議だった。Dr.フェイカーも来賓じゃなかったのか。本当に何をやっているんだ。
 オレがきょろきょろしていると、隣の神代凌牙が何してんだみたいな顔でオレを見てくるが、ハルトがオレの視界から消えてしまったのだから仕方あるまい。オレはハルトを探す。
 どうやらトイレに行っていたらしく、戻ってきてからは保護者席の最前列を陣取った。周囲には着飾った母親が多くいる中、異様に浮いているが、オレのハルトが今日のために新調したスーツにはどれもこれも敵わない。気品も、着こなしもハルトが一番だ。上の空みたいだが…。
 Mr.ハートランドの祝辞はいつものように「ハートバーニング!」で締めくくられ、在校生代表で遊馬のクラスの委員長が送辞を読み上げ、蛍の光が歌われ、顔も名前も知らない誰かが答辞を読み上げる。
「おい、カイト」
 凌牙がボソッと話しかけてきた。
「お前、答辞を断ったらしいな」
「それがどうした」
「弟の前でいい格好をしたいかと思って、オレが譲ってやったんだぜ」
 おい、まさか本当の首席は凌牙だったとでもいうのか。
 しかし実は心当たりがある。成績はオレと凌牙がワンツーだった。他の科目が上下しようと、オレが一度も勝てなかった科目がある。体育だ。
 別に成績なぞどうでもいいのだ。オレがこの学校に通ったのは命令によるもので、ハルトの病気を治すための仕事の一環だったのだから。
 しかし、たかが跳び箱やクロール五十メートルのタイムで、こいつに負けたが故に、こいつに優越感たっぷりの顔をされるのは腹が立つ。
 無言で足の踏みあいをしている間に答辞は終わり、仰げば尊しを歌う。こんなちっぽけなプライドと下らない足の踏みあいにも、いざ、さらば。

 式典が終わり、卒業生は拍手で送られる。何だか居心地の悪い中を行進し、校舎の廊下で周りがふざけ始める中オレもホッとしていると、Dr.フェイカーがハルトを連れて追いかけてきた。
「私はハルトを連れて先に式場に行く。お前も解散になったらすぐ来るように」
 タクシー代と教会への地図を渡される。
「兄さん、先行くね」
 ハルトが言う。オレはその頭を撫でた。
「オレもすぐ行く。…卒業式はどうだった?」
「眠たかった」
「そうか…」
 Dr.フェイカーに手を引かれつつもハルトは何度も振り向いて手を振った。
 教室では今年の担任になった北野という教師が涙まじりに最後のホームルームをやって、周囲の人間ももらい泣きをしている。オレは冷めた目で窓際の凌牙を見た。ヤツもどうせ泣きはしないだろうと思っていると、頬杖をつき窓の外に視線を逸らしながら泣くのを我慢しているらしかった。
 クラス委員長が号令をかける。起立!気をつけ!礼!
「ありがとうございました!」
 この言葉で解散しながら、オレはありがとうなんて言葉をこんなに大声で言うのはいつ以来だろうと思う。
 北野はオレを呼び止めて、ハルトが来ていたことなどを話す。
「…もう行ってもいいですか。用事があるので」
「最後まで冷めたヤツだなあ」
 教師は苦笑を浮かべる。
「天城は周りよりも早く大人になってしまっていたんだな」
「失礼します」
 オレは頭を下げる。
「お世話になりました」
 すると一瞬呆気にとられたような顔をして、北野はオレの背中を叩き、送り出した。その後廊下から振り返ると、凌牙と話をしていた。
 中庭も大賑わいで、あちこちで卒業生が記念写真を撮ったり卒業デュエルをしたりしている。
「カイト!カーイートー!」
 大声でオレの名前を連呼するのはこの学校では後輩で、本来は敵であるはずの九十九遊馬、いわゆる馬鹿だ。
「なんだ」
 駆け寄ってきた遊馬は呆れて言う。
「カイトって何でそういっつも不機嫌そうなんだよ。今日は卒業式なんだぜ。少しは嬉しそうな顔しろよ」
「お前から表情まで指図を受ける筋合いはない」
「これだぜー。ま、いいや。卒業おめでとう、デュエルしようぜ!」
「オレは忙しい」
「やんないのかよ、卒業デュエル」
「お前が全てのナンバーズとアストラルを賭けるというならば乗ってやってもいいが?」
 背後でアストラルが何か言ったらしい。遊馬は中空に視線を遣って答える。
「だからさ、オレとカイトが組んでタッグデュエルすればいいじゃん」
 ふん、お前のモンスターなぞ召喚された端から、ばかすかリリースしてやるわ。
 立ち去ろうとするオレの後ろから、あっ待てよ、と追いかける遊馬の声。
「卒業したけどさ、またハルトを連れて遊びに来いよな!」
 オレは返事はせずに校門へと向かう。
 門の外ではタクシーと一緒にオービタル7が待っていた。
「オマチシテオリマシタ、カイト様」
「…お前で飛んで行った方が早いな」
「ソレガ、ハルト様ガ、オナカガスイタトノコトデ。コンビニデ、デュエル飯ヲカッテキテホシイト」
「…おにぎりか」
 ハルトはおにぎりをデュエル飯と呼ぶ。九十九遊馬の悪い影響だ。
 しかしコンビニの袋を持ったまま空を飛ぶのは微妙でもあるし、Dr.フェイカーから金ももらっている。ここはおとなしくタクシーに乗るか。

 教会の最寄りのコンビニでタクシーを降りた。
「おにぎりにはこんなに種類があるのか…。どれを買えばいい」
「ハルト様ハ、具ナシノデュエル飯ガ、オコノミデス」
「オービタル、次にデュエル飯と言ったらスクラップにする」
「カッ、カシコマリ!」
 梅に、おかかに、シーチキンマヨネーズ…。具なしのおにぎりなどないではないか!
 仕方ない全種類買っていってハルトに好きなものを選んでもらおう。
 片っ端からカゴに入れていると後ろから「よっ」と声がかけられ、また面倒な誰かに会ったかと思ったらタキシード姿のゴーシュが立っている。
「…貴様、結婚式の準備はどうした」
「オレはこれ着るだけでいいんだよ。手間がかかるのはドロワだ」
 ゴーシュはカゴの中を見下ろすと、まだ昼飯食ってないのかと言いながらそれを取り上げる。
「おい待て」
「いいからいいから」
「金はある。施しは受けん」
「そういうんじゃねえよ」
 結局レジを済ませたのはゴーシュで、オレは袋一杯のおにぎりを持って教会に向かう。
 控え室にはハルトもDr.フェイカーも、公務を終え到着したばかりのMr.ハートランドもいた。
「兄さん、多いよ」
 ハルトは袋を開けて言う。
「ごめん。どれが好きか分からなくて」
「ボクこれでいい」
 取り上げたのは赤飯おこわだ。
「塩味が足りんな」
「これが庶民の食べ物ですか。ぽろぽろこぼれますねえ」
 Dr.フェイカーとMr.ハートランドが勝手に紀州南高梅と銀シャケを食べながら文句を言う。Dr.フェイカー、アストラル世界を潰す前に高血圧で死ぬぞ?
「兄さんも、はい」
 ハルトがくれたのは海老マヨネーズだった。
「ありがとう」
 微笑みながら微妙な心持ちでそれを食べた。
 海老…。

 式は厳粛な雰囲気の中行われた。
 いつも冷徹で冷静なドロワは、いつもと全く違う雰囲気をまとって現れた。真っ白なウェディングドレスに身を包み、その表情は白いヴェールに隠されている。
 バージンロードをエスコートしたのはMr.ハートランドで、既に涙ぐみそうなのをぐっとこらえ、正面を見つめていた。その正面で待つのが、ゴーシュだ。
 いつもノリだの五月蠅い男が黙って花嫁の到着を待っているのが、この雰囲気の厳粛さを深めていて、多分この三人の普段の姿とのギャップが作り上げた空気なんだろう。
 卒業式は眠たかったというハルトも、最前列の椅子でぱっちり目を開けて式を見守っている。司祭が聖書を読み上げ祈祷し、誓約の言葉。
 ヴェールが持ち上げられ、初めてドロワの顔が露わになる。いつもの真面目そうな顔をしているが、目元が赤くなっているのが最前列に座るオレからは見えた。
 誓いのキスは頬にされ、隣でハルトが「うわあ」と小さな声を上げる。
 それから指輪の交換。結婚証書に署名をして、二人が晴れて夫婦となる。
 今更、のような気もした。ヤツらはどうして今日に結婚式を合わせたのだろう。今日はオレの卒業式が入り、Mr.ハートランドも公務とは言えオレ達と行動することが多いから合わせたのだろうか。それとも、ハートランド内の予定が空いていたのが今日だった?
 三月九日。
 オレは不意に遊馬を思い出す。アイツのエースモンスター、希望皇ホープのナンバーが39だからだ。
 サンキュー。まさか。そんな語呂合わせで?
 聖歌が流れ、司祭が祝福する。いよいよ新郎新婦の退場だ。オレはハルトを促して、ぞろぞろ出て行く参列者に続き教会の外に出る。
 ライスシャワー用のカゴを手渡され、ハルトがうきうきしているようだったので、オレの分もあげた。ハルトは気もそぞろに、オレを見ずに「ありがとう」と言った。
 新郎新婦が出てくるようだ。オレはハルトを肩車する。階段の上に現れたのは花嫁を両手で抱きかかえたゴーシュと、花婿に両手で抱きかかえられて顔を真っ赤にしているドロワで、ハルトはここぞとばかりにライスシャワーを振りまいた。
 というか米だな。米はオレの頭にも容赦なく降りかかった。
 参列者も一緒になった写真撮影が終わり、やれやれ披露宴だと思ったら、準備にまた時間がかかるらしい。オレとハルトはオービタル7を連れて少し散歩に出る。
 ハルトはずんずん歩く。これからまた食事が出されるから、少しでもお腹を減らせておく、と言って。
 少し歩いて川辺まで出た。午後の光が淡く景色を満たしている。
「兄さん、これあげる」
 その手にはブーケトスでもらった花束を持っている。
「せっかくハルトがもらったんだろう」
「卒業のお祝い、ボクはお金がないし、プレゼントも用意してなかったから」
「気を遣わなくてもいいんだ、ハルト」
「でも、あげる」
「…ありがとう」
 オレは花束を二つに分けてリボンで結び直した。
「じゃあ、これは兄さんから」
 するとハルトの顔が明るくなった。
 その笑顔は、本当に花が開くみたいだ。オレはいつまでもそれを見ていたくなる。いや、見ていたい。
「ありがとう、兄さん」
 ハルトは半分になった花束を受け取り、それを空に掲げた。
「蝶が、来ないかな」
 まだ少し寒い。外出するにはコートが手放せない。三月になり、春の気配をそこここに見るようにはなったが、蝶はまだだろうか。
 歩き疲れたハルトが座ると言うのでハンカチを出して、堤防の芝の上に座らせた。
「兄さん、あれ」
 ハルトが対岸を指さす。
「アストラルだよ」
 遊馬達、いつもの一団が歩いている。そこには一緒に凌牙もいて、何だかミスマッチだ。
「カイト様」
 後ろから小さな音声でオービタル7が呼んだ。
「カイト様ハコノ一年、学校ニ通ワレルノハ、ゴ不満ナヨウデシタガ…。テストデ満点ヲトラレルカイト様モ、サッカーデボロボロニ負ケテ帰ッテコラレルカイト様モ、ワタシハ、アノコロノカイト様ガ戻ッテコラレタヨウデ、トテモナツカシク思イマシタ。カツテ、カイト様ハ…」
「黙れ」
 オレの命令にオービタル7は黙り込む。
「要らん感傷はよせ、オービタル。所詮、ヤツとは戦う運命だ」
「カシコマリ…」
「兄さんはアストラルを倒すの?」
 ハルトが振り向く。
「…いつかな」
「いつかって、今日じゃない?」
「ああ。今日じゃない、いつかだ」
 するとハルトはまた対岸を見つめて言った。
「ずっと今日が続けばいいのに…」
 少し冷たい風が吹いた。
 ハルトがくしゃみをする。オレは自分の上着をかけてやった。急に肌寒くなった。
 オービタル7が促す。オレ達は川辺の景色に背を向けて式場への道を戻った。

 結婚披露宴では先ほどまでの厳粛な雰囲気も消え、賑やかに進行した。
 乾杯の前にMr.ハートランドが挨拶をしたのだが、卒業式では原稿も出さずハートバーニング!と声高らかに言っていたMr.ハートランドが、スピーチの最初でつまずき、原稿を出そうとして慌ててポケットから引張りだそうとしてはそれを破る。
 らしくない緊張をしたMr.ハートランドと、それを見てハラハラしっぱなしのドロワと、その隣で必死になって笑いを堪えているゴーシュがいて、会場はもうあちこちからくすくす笑いが漏れていたところ、ドロワが隣の様子に気づいてゴーシュの足を思い切り踏みつけたらしい。痛え!と悲鳴が上がり、会場はどっと沸いた。
 それで落ち着いたらしいMr.ハートランドのスピーチもなんとか終了し、今度こそ声高らかに「ハートバーニング!」と乾杯。
 祝電の中には奥平風也という俳優からのビデオレターもあって、ハルトも含め会場がエスパー・ロビンだ、とざわめく。どうやら人気らしい。
 お色直しとやらでドロワが何度かドレスを着替えたが、ケーキカットで登場したのは白いタキシード姿のドロワと、ごつい身体にウェディングドレスを着たゴーシュだったので、何人かは酒を吹く。悔しいながらオレもウーロン茶を吹くところだった。
「何をやっているんです、ゴーシュ」
 Mr.ハートランドは冷静そうに言うが、多分ネジが飛んだだけだろう。
「ノリですよ、ノリ」
 ゴーシュの口からはいつもの返事。
「…止めなかったのですか、ドロワ」
「週末の結婚講座に参加した時、ちょうど合うドレスがあったもので」
 それは理由になっていない。
 しかしこの新婚夫婦は本当にその格好のままケーキに入刀した。
 ハルトはそれを見てずっとニコニコしていた。
「面白いか…?」
 尋ねると、ハルトは首を振る。
「うん、すごくたくさんの悲鳴が聞こえるよ」
 多分この場で冷静だったのはDr.フェイカーだけだったのだろう。オレより先に人間をやめた彼には自分の部下の部下がどんな格好をしてようが構わなかったに違いない。彼がそれより気になるのは料理の塩味だ。
 最後はちゃんとドレス姿のドロワと、タキシードのゴーシュに見送られてホッとする。
 ハルトは「悲鳴が消えちゃった…」と残念がっていた。
「で、二人ともこれからどうする」
 オレが尋ねるとゴーシュがニヤニヤ笑う。
「オレ達が空き缶をつけた真っ白なオープンカーでハネムーンに行くとでも思ってんのか?」
「生憎、明日からまた仕事だ。いつもと変わらない」
 そう言いつつもドロワの表情が――川辺で見たハルトの笑顔のような花開くようなそれではない、いつもの表情に近いのだが、それでもほんのり笑って見えるのはドレスのせいだろうか。
 見送りの際に新郎新婦がお菓子の包みをくれる。オレはハルトにそれをあげて、引き出物の袋を二人分持った。
「キャラメルが入ってる」
 ハルトは早速それを口に入れる。
 ハートランドのタワーに戻る頃、空は夕焼けで真っ赤だった。夕方六時過ぎ。気がつけば日が長くなった。
 タワー上部のハルトの部屋から三百六十度パノラマのハートランドの夕焼けを見る。
 ハルトは床の上に今日もらったお菓子と花束と引き出物を広げていた。
「お揃いのお皿だよ、兄さん」
「縁の色が違うな」
「水色がボクの。緑は兄さんが使って」
 二つに分けた花束はもうぐったりしかけている。ハルトが残念そうな顔をするので、オレは開けたばかりの引き出物の中からコップを取り上げ、ペットボトルの水で花束を活ける。
「…兄さんは明日からどうするの?」
 ぽつりとハルトが尋ねた。
「いつも通りさ」
 オレはいつの間にかあの二人と同じ事を答えている。
「仕事だよ。お前の病気ももうすぐ治してやれる」
「ボク…」
 ハルトは花束を活けたコップを抱きかかえた。
「今日のままでも、いいな」
 三月九日。
 オレの卒業式。ゴーシュとドロワの結婚式。色々あったがただの一日に過ぎない。
 ただの区切り、ただの一日。
 今日が永遠に続いても何も変えられないのに……変わらないことを願うのか。
 オレは何も答えられず、ただハルトの頭を撫でる。
 夕陽が完全にハートランドシティの向こうに沈む。舞い降りる夜。星の輝き。
 久しぶりに外へ出て疲れたらしいハルトは早めにベッドに入ってしまう。オレはその枕元について手を握り、ハルトが眠るまで待つ。
「兄さん、今日はありがとう」
「何だ、突然」
「初めて兄さんの学校に行った。楽しかった」
 オレは小さな手を握りしめる。
「ハルトも、来てくれてありがとう」
 ありがとう。ありがとう。今日は何度この言葉を言っただろう。
 サンキューの日、まさか、そんな語呂合わせ…。
 ハルトが眠りに落ち、静かに部屋を出る。エレベーターの中で天井を見上げ瞼を閉じると、そこには自然とハルトの笑顔が浮かんできた。
 日付が変わって三月十日になろうとも、明日遊馬と戦うことになっても、オレは恐れない。怖くない。お前がいるからいつだって強くいられる、ハルト。
 瞼を開くと、エレベーターの強化ガラスの向こう、ハートランドの夜景が広がる。そこにいる新たに夫婦となった男女も、ハートランドの象徴たるデュエリストも、謎の科学者も瞼の裏に誰かを思い浮かべるのだろうか。オレがハルトを想うように。
 エレベーターが止まる。ドアの向こうにはオービタル7が待っていた。
「オマチシテオリマシタ、カイト様」
 赤い機械の瞳がオレを見上げる。
「オービタル」
「ハイ…!」
「いや」
 まさか、な。
「行くぞ」
「カシコマリ!」
 飛行モードに変形したオービタル7とオレはタワーの周りを一度旋回し、夜の街へ飛び立った。
 今夜も、ナンバーズを狩るために。
 三月九日、この日の終わるまで。終わっても。






2012.3.9 レミオロメン「3月9日」のPVをもとに