雨とゴースト




 風呂上がりの髪をタオルで拭きながら屋根裏に戻る途中で振り返るとアストラルがいて、遊馬は思わず立ち止まり何かを言いかける。しかしどんな言葉をかければいいのか分からない。この感情がどういったものなのかも判然としていない。
 外は雨が降っていた。
 急な夕立と思ったがそれは長く降り続いた。三人で雨宿りをしていた遊馬は、小鳥に迎えが来て車が彼女を連れ去ったのを見送ると、鉄男と一緒に雨の中を駆け出した。雨のせいで夜は早く訪れた。空は真っ暗だった。街灯やショーウィンドーの光が眩しく、いよいよ夕闇は濃くなる。
 いつもの角で鉄男と別れ一人で走る遊馬は、信号や階段に遮られ足を止めるたびに後ろを振り向いた。アストラルがいた。
 アストラルは姿を消さず、走る遊馬の後ろを律儀についてきていた。遊馬は足下を見下ろす。自分の足下は雨を遮られている。しかしアストラルの足下は、他の場所と同じように何も遮るものはなく雨が叩いていた。
 遊馬はあの横断歩道を思い出す。カイトが立ち去り雨の中に取り残されたあの日、アストラルさえ雨に打たれ、濡れているように見えた。自分の目が雨に滲んでいたからだろうか。あの印象があまりにも強いのだろうか。
 しかし振り返って見るアストラルはいつもと変わる様子がなく、自分をすり抜ける雨にも頓着しない。
 帰宅すると祖母が出迎えて、タオルで髪を拭いてくれた。明里は今朝の天気予報と傘を持って出なかった遊馬を叱りながらも、濡れた服を洗濯してくれた。そして遊馬はまたアストラルを振り返った。玄関に落ちた水たまりは、全部自分の足跡だ。アストラルはほんの一ミリだって濡れてはいない。濡れることはない。
 遊馬は今、風呂上がりであたたまった身体と、それを柔らかく包み込むタオルの感触を感じながらアストラルを見上げていた。
「遊馬?」
 アストラルが首を傾げる。
 遊馬はタオルを自分の顔に押しつける。本当はこのタオルで、アストラルを拭ってやりたかったのだ。濡れる訳がないとしても、雨はその身体を素通りするとしても。
「帰ろ」
 自然と口をついた言葉は表現としては少しおかしかったかもしれないけど、遊馬は屋根裏を思い描いて本当にそう思ったし、アストラルも何も言わなかった。
 革トランクの上にテレビをのせ、電源を入れると大して見たこともないドラマをやっている。今日はロビンの日ではない。深夜の再放送もない。それでも遊馬は何か面白そうなチャンネルを探してテレビの前に座っていた。いつの間にかアストラルが隣に座っていた。
 チャンネルは結局ニュースに定まる。これなら海外のデュエルのプロリーグの話題も出るからだ。政治や経済のニュースは遊馬にはちんぷんかんぷんだが、じっと座っている。現在国内では大きな大会も行われていないせいかデュエルのニュースは短く報道されただけで、あとはWDCのCMが繰り返し二回流れた。
 天気予報が明日は晴れると言ってニュースは終わる。しかし遊馬はテレビを消さない。またWDCのCMが流れる。その後はテレビショッピングが始まるが、勿論遊馬はそれに興味がある訳ではない。
 アストラルも同じように黙ってじっとテレビを見ている。
「面白い?」
 遊馬は尋ねた。
「君が一生懸命見ているから、面白いのかと」
 アストラルはテレビを見たまま言った。その横顔はわずかに光に照らされて見える。金色の瞳は光の反射か白っぽい銀に光って見えた。月のような銀色だ。多分、雨雲の向こうで光っている。
 遊馬はテレビを消した。
 雨が降る日の屋根裏は暗い。
「アストラルはさ、熱いとか冷たいとか感じるの?」
 ちょっと覗き込むような角度で尋ねると、アストラルが少し振り向いた。
「エスパーロビンを見ていると胸が熱くなる。恐怖を感じれば身体の動かなくなるほどの冷たさを感じる。しかし君が尋ねたのが体表の温感という意味なら、答えは『いいえ』だ」
「…『いいえ』って言って」
「いいえ」
 ぷっ、と遊馬は笑った。
「変なの」
「何がだ?」
「アストラルって言葉遣いはキレイだけど、丁寧って訳じゃないだろ」
「『いいえ』は丁寧か?」
「なんかね」
 アストラルが目を伏せ、胸に手を当てた。遊馬は生乾きの自分の髪に触り、アストラルから目を逸らした。
「雨に打たれるのって、どんな感じ?」
「雨に、打たれる?」
 アストラルは不思議そうに言う。
「私は雨にも触れられない」
 分かっている。雨はアストラルの身体をすり抜ける。かつて自分の拳が、この身体が、触れることもできずすり抜けたのと同じく。
「つめたさも感じない。君の体温はあの雨で随分下がってしまったようだが、遊馬」
「分かるの?」
「肌の色が違う。今は赤みが差している。『風呂』の効果か?」
「そ、『風呂』の効果。だから覗いちゃ駄目だからな」
「分かっている」
 遊馬はアストラルの髪に向かって手を伸ばした。その手はやはりすり抜けて、触れることはできなかった。
「…寝る」
 手を下ろし、遊馬は立ち上がった。
「おやすみ、遊馬」
 ハンモックに横になると、アストラルも傍に浮かぶ。遊馬は思わず手を伸ばしたが、その手をどうすることもできず、小さく振った。
「おやすみ、アストラル」

 翌朝、静かに目覚めた。いつも自分が起きる時間よりもずっと早かった。
 外は雨が降り続いていた。
 天気に反して目覚めはすっきりしたもので、遊馬はハンモックから下りるとすぐに着替えようとTシャツを脱いだ。
 その時、傍にアストラルの姿が現れた。直線的な光のない、輪郭の柔らかな光景の中に、いつものアストラルの姿があった。重心は凛と直線的で、ほっそりした腕を組み、床からわずかに浮いている。半透明の透けた身体。金色の瞳。
「アストラル」
 名前を呼ぶと裸の胸に皇の鍵の感触を感じた。
「おはよう」
 遊馬は言った。
「おはよう、遊馬」
 アストラルが微笑み、返した。
「…アストラル」
 遊馬は驚きを隠さず、アストラルを指さす。
「笑えるんだ、お前」
「…『おはよう』と言った君の顔を真似しただけだが?」
 もう片手で遊馬は自分の頬に触れる。笑っている? オレが? オレの方が先に?
「何かおかしかったか?」
「ううん」
 遊馬は両手で自分の頬を挟み、にやっと笑った。
「じゃ、オレはアストラルの表情の先生?」
「手本が偏っているようだ」
「朝っぱらから口の減らない奴!」
 明里に驚かれながらゆっくり朝食を摂り、余裕を持って家を出る。手には勿論、傘。天気予報は午後まで雨、のちに曇り。
 遊馬は振り返る。雨の中、遊馬の後ろをアストラルはついてくる。
「こっち」
 遊馬は手招きをした。アストラルはただ近づくだけだったので、傘を揺らして隣を示す。
「入れよ」
「私には意味がないが」
「あるの、オレには」
 地上から浮いているアストラルを傘に入れると、髪が傘の上に突き抜けてしまう。遊馬は傘を握る手を持ち上げた。
「遊馬、肩が濡れている」
 傘からはみ出た遊馬の肩は、雨粒に打たれていた。
「いいんだよ、一限は体育ですぐ着替えるし」
「傘の中心に寄った方がいい。『体育』が終わったらまた着替えるのだろう?」
 遊馬はちらりとアストラルを見上げた。
 半歩、傘の中に踏み込むもしかしたらアストラルと肩がくっついていたのかもしれない。触れ合えないもの同士が透けていたかもしれない。しかし遊馬はもうそれを見なかった。触れない。いつものことだ。しかしアストラルがデュエル以外で口出しをするのは珍しいことで、その上その言葉は、まるで、優しい。
「さんきゅ」
「何故?」
「なぜとかじゃねえよ。感謝の言葉は素直にもらっとけよ」
「しかし、感謝を感じ述べるべきは、君たちの社会的規範に照らし合わせれば私の方では?」
「なんだよそれ難しいな」
 遊馬は眉を寄せて笑う。
「こういうのは素直に言うもんなんだぜ」
「…さんきゅ、か?」
 雨の中、遊馬は爆笑した。
 ちょうどその時、後ろから鉄男と小鳥がやって来て声をかけようとしていたのだが、突然笑い出した遊馬にぎょっとして、距離を置いたまま後をつけていた。
 遊馬はそれに気づかず笑っていた。隣ではアストラルが、理解に苦しむ、と腕組みをしていた。






2011.8.12