ノイズ




 モノクロの古いフィルムだったものはデジタル化してもそれ以上鮮明な映像にはならなかった。
 ぼんやりと灰色の霧がかかっているように見えるのは熱帯雨林に降り注いだ雨の名残で、長い髪を帽子の中にたくしこんだ女性の後ろ姿は時々灰色のそれに隠れながら音もなく草を分け、進む。
 このフィルムには音声が残っていない。だから遊馬は無音の中に残る母の後ろ姿を黙って追いかける。
 樹木はどれも歪な形をしている。石柱や壁を呑み込み、破壊した上から更に成長を続ける。彼女は立ち止まって判別可能なレリーフを書き写す。ある時、ちらりと撮影者を見て何かを問いかけた。口の形で、父の名を呼んだのだと解る。二人は会話をしながらコンパスの指す方向を確認したり、地図に何か書き込んだりする。
 画面の隅に太い指が映る。それは父の手だ。父の手と母の手が同じ方角を指さす。母は再び歩き出す。父のカメラがその後を追う。急に視界が拓ける。灰色の霧が画面を包み込んでフィルムは終わる。
 遊馬は幼い頃、繰り返しそのフィルムを見た。見なくなったのは、このペンダントを身につけるようになってからだ。アストラルが皇の鍵と呼んでいるこれを。映像は、今では明里の所有するデータベースにアクセスしなければ見ることができない。明里はそれを禁止している訳ではないが、遊馬は見ないし、それで構わない。
 オリジナルは何度も見た。フィルムが擦り切れるまで。
 一秒漏らさず、そこに映し出されたものを覚えている。
 灰色の霧。母の後ろ姿。こちらを振り向いた時の、かすんだ映像の中でも分かる瞳の輝き。目指す先に、最後の一瞬そのシルエットを浮かび上がらせる巨大なピラミッド。それがまた灰色の霧に隠れて、何も見えなくなる。ノイズが世界を包み込む。
「遊馬」
 心地よさの向こうから呼ぶ声がする。
「遊馬」
 母の、あの優しい呼び声ではなく、感情の希薄な、そして遠慮のない声。
 もう一度呼ばれる前に瞼を開いた。夜闇の中、微かに発光するそいつは見えた。遊馬、と呼ぼうとしてか、わずかに唇が開いている。
「…なんだよ」
 遊馬はハンモックの上で身を起こし、不機嫌そうにアストラルを睨みつけた。
「君がうるさくないと言うのなら構わないのだが」
 アストラルがちらりと視線をやる。テレビは既にその日の放送を終え、灰色のノイズを流している。遊馬は手に握ったままのリモコンに気づいた。
 雑音と灰色のノイズ。灰色の画面も微かに光を放っている。それがアストラルの腕を透かして見える。
 黙って、電源のボタンを押した。途端に屋根裏は静かになり、遊馬の耳の奥にはそれまでの雑音に慣れてしまった神経が高い耳鳴りを響かせた。
 再び横になるが、瞼は閉じなかった。アストラルもすぐ傍らに浮いたまま自分を見下ろしている。瞬きをするとノイズの残像とアストラルの姿が重なる。アストラルの姿は微かに発光しているのに、透けている。本当にこの目に見えているのか、不意に解らなくなることがある。
 手を伸ばすのは、嫌だ。
 フィルムの映し出す映像にいくら手を伸ばしてもあの背中には届かなかったように、見えているはずの彼にもまた触れることはできない。
「遊馬」
 またアストラルが呼んだ。
「何だよ」
 そう答えながら目を閉じる。瞼の裏に残像が淡く明滅する。灰色のノイズは白い霧となる。アストラルの姿が霧にかすむ。
 アストラルが何も言わないので、遊馬の意識は再び眠りの中に溶ける。白い霧が意識も浸食し、心地よい無思考の中に身を落とす。
「眠ったのか」
 遠くで、感情の希薄な声が言った。声は霧の中に青白い光を落とした。遊馬はそれに手を伸ばすが、触れることはできない。夢の中で遊馬は目を閉じる。今度は暗い闇の中に、夢も見ない眠りの中に落ちる。
「眠ったのか…?」
 そう尋ねるアストラルの声も聞こえないほど。






2011.8.3