フラジール、27℃の夜




 わざとなのか、そうでないのか。判然としなかったのはその時の宿主の顔が見えなかったからであり、その後姿は泣いているようにも見えたからだった。皿の割れる派手な音はリビングの子バクも驚かし、思わず駆け寄ってこようとするのを盗賊王が引っ張って止めた。バクラは足元にちらばる陶器の破片を拾い始める。
 乱暴に蛇口のレバーを上げ、叩きつけるような水流で宿主は残った皿を洗い始める。水がばしゃばしゃと跳ねて服を濡らすのにも頓着をしない。バクラは宿主の足元まで近づき大きな皿の破片を拾った。蹴り飛ばされやしないかとわずかに心配したが、そこは何とか杞憂に終わる。
 子バクが少し怯えた、とバクラは思った。あいつはまだ、身内の不機嫌に慣れていない。盗賊はもうそんなものを気にするたまではないから、上手くいなしてくれるだろうか。バクラは慣れていた。バクラに対して、宿主は最初から遠慮をしなかった。宿主が取り繕わず自分の感情を剥き出しにするのは滅多にないことだと、彼は最初から知っていた。心の中に沈殿する感情を、降る雪のようにバクラは見上げていた。心の部屋の深い闇の底に、それははらはらと降り注いだ。触れた、まるで本物の雪のように冷たいそれらは宿主が押し殺した言葉や表情で、バクラは何に傷つくこともないリングの中で、久しぶりに生身の痛みを思い出した。
 あの頃は実に無理やりなやり方でその傷みを有耶無耶にした。宿主を心の部屋に引き擦り込み、わざと汚い言葉をぶつけて涙を引き出した。表の世界では常に微笑みを浮かべている宿主の唇が歪み、歯を剥き出しにして醜い言葉を投げた時、バクラはそれが自分を口汚く罵る言葉であればあるほど勝利の味を感じた。後は暴れる身体を押さえつけて、キス、お決まりのコースだ。
 何があったのかは知らないが。当時はよくそんな言葉を口にした。本当は全て見ていたから、真っ赤な嘘だった言葉だが、この身体が分かれ、一つの肉体に一つの魂を持った存在としてこの世に現れた時から、その言葉は今更のようにバクラに真実味を押し付けた。何があったのかは知らないが、何をそんなに不機嫌なんだよ宿主様。
 そういった接触を、こういう状態の宿主は好まない。不機嫌が増すばかりだ。だからと言って無視をするのも逆効果だった。もうちょっと簡単に甘えてくれ、という言葉を胸の中だけで呟き、バクラは皿の破片を菓子箱に入れて次のごみ収集の時に忘れないよう、冷蔵庫の横のカレンダーに書き込む。
 風呂は沸いている。一番だの何だのに宿主はこだわらない。チビをさっさと入れて寝かせた方が話は早いだろう。リビングに声をかけると、既に半裸だった盗賊王が子バクを小脇に抱えて風呂に入る。ふざけているのか、笑い声がここまで響いてきて、それには正直救われる。
 ダイニングテーブルに腰掛け、宿主の後姿を眺めながら、今のうちにキスくらいはしてやりたいと思う。自分がしたいだけなのかもしれないが、とにかく顔が真っ赤になるくらい泣かせて、何も喋れなくなるくらいにキスをしたい。不機嫌を見せてくれるのは、自分たちが家族である特権でありがたくなくもないが、形にならない怒りや苛立ちを中にいっぱい詰め込んだまま押し黙っている宿主が、やはりバクラは好きではないと思った。笑っていればいいんだ、宿主は、いつも。
 服をひん剥くところまで妄想は進行し、バクラはその気になる前にリビングに逃げる。シュークリームの買い置きはなかった。風呂の後、何を準備してやれるだろうか。寝室を冷房で寒いほどに冷やし、ベッドの上を整え、ただ眠ればいいようにする為に。明日の朝食の準備も、宿主が今台所に立っているということは多分、自分でやってしまうつもりだ。こういう時に手を出すと、よけいに不機嫌になる。好きなことを好きなようにさせるだけだが、やきもきしてしまう。
 一度は座ったソファからバクラは立ち上がり、まっすぐキッチンに戻ると後ろから宿主を抱きしめた。
「邪魔」
 冷たい声が苛立ちを滲ませて一言。
「悪ィ」
 バクラは離れ、絶対後で泣かす、と思った。思っていたら、逆に宿主の身体がぶつかってきて、予想していなかったバクラはよろめく。
「お前が悪い」
 宿主は俯き、小さな声で言った。
「我慢したくない。できない」
 その言葉を引き金に、ぱっと上がった顔はすぐに見えなくなった。乱暴なキスが唇にぶつかり、歯の鳴る音を感じた。
 キスは始まりと同じように乱暴に終わり、バクラの頬もそうだが、宿主の顔も赤くなっていた。
「待てない」
 泣き出しそうな顔が、悔しげに眉をひそめ、両の瞳はじっとバクラの目の奥を見つめた。背後では蛇口から滝のような水が流れ出続けていた。
 今日も熱帯夜だというのに、冷房をつけていないからまだ蒸し暑いままの寝室に飛び込み、鍵を下ろし、チビと盗賊のことは忘れる。出来るだろうか、と躊躇うバクラは自分が人間になったような気がして、宿主と同じように眉をひそめた。
 追われるように二人は走った。蛇口の水さえ止めることをせず寝室に飛び込み、ドアに鍵をかけ、冷房のスイッチをかろうじてつけたがリモコンはばたばたとお互いの服を脱がせている最中にどこかにやってしまった。
 真っ暗で冷たい部屋。宿主は目を瞑り、暴れる手のひらでバクラに触れたり叩いたり、抱きしめたりしながら存在を確かめていた。そうだ、まるで心の部屋の、あの奥底にいた時を思い出すように。バクラは久しぶりに、まるで食べるようなセックスをした。子バクと盗賊王のことは忘れていた。
 真夜中過ぎ、まどろみから目覚めた宿主が水を欲しがるので寝室から出、ついでにリビングを覗くとソファの上で眠る盗賊王と子バクの姿があった。隣の寝室を遠慮したのだ。気晴らしに見ていたのか、テレビはしかし夜中のショッピング番組になってしまっていた。バクラはそれを消して、水を片手に寝室に戻った。
「ありがとう」
 水を飲んだ宿主はやはり小さな声で言った。それから小さな声でごめん、と囁くのでその頭を軽く叩いて抱きしめると、冷房の効きすぎた部屋の中でそれはじんわりとあたたかく、このまま朝までぐっすり眠れるだろうとバクラは思った。






2010.7.25