二百十一日の誕生日




 傷跡は過去の出来事を、記憶を現実のものだったと証明するものだと言ったのは多分、ハンニバル・レクター博士で、僕はその本をどこにやっただろうと本棚を漁り結局、午後が潰れた。
 台風は東京を直撃して、外は世界中のバケツを空から引っ繰り返したみたいになっている。風がつよくて、ベランダに続く窓に耳を押し当てていると、嵐の中を沈んでいくような錯覚をする。そう、うとうとしていたから。
 本を探すためだけに誕生日の午後を潰したんじゃないんだ。探している最中に見つけた別の本やノートに気をとられたから。僕は懐かしいそれらを持ってリビングに戻り、台風の暗い灰色の空を背に、暗くなるまでそれを読んだ。
 僕はそれを読みながら、懐かしさのあまり何度も目を逸らし、何度もノートを閉じ、何度もシャツの腹を捲った。
 あれは現実のものだったと証明してほしくて。
 手の中にあるこれは全部僕の妄想ではなくて、あいつがいた証なのだと教えてほしくて。
 胸に残る五つの傷跡。千年リングを僕が身につけていた証。そこには僕以外の魂が宿っていて僕に触れようとした、その証拠。
 僕はすっかり忘れていた。だから本棚を引っ繰り返す勢いで探さないと見つからなかった。あいつの書いたTRPGのシナリオ。悪夢のような物語。ゲームマスターとしてのマナーなんかあったもんじゃない、でも、これこそあいつの果たしたかった復讐だから。
 ゲームマスターだったから、僕も。だから、僕だって何度も演じてきた。テーブルの上で世界の悪役を、悪夢の城の主を。だけどあの日々、あの時間、僕は演じていたんじゃない。世界の悪役そのものだった。
 全部壊すと言ったあいつ。
 全部盗むと言ったあいつ。
 その全ての望みを破壊され、消えていったあいつ。
 あいつの記憶は曖昧だ。学校の鏡の中で初めて出会ってから、随分長く一緒にいたはずなのに。あいつは僕に話しかけ、最後の舞台はあいつと僕の二人で作り上げたのに。あいつの顔も思い出せない。あいつの声も思い出せない。
 僕は誕生日の午後なのに悲しくなって、台風レポートなんかテレビで見る気にもなれなくて、膝の上にノートをのせたまま窓に頬を押しつけて、あいつのことを惜しんだ。
 世界の悪役を? 本物の邪神を? 僕はね、寂しがりの人間だから、一人で巨悪に立ち向かうような勇気は持ってなかった。ううん、あいつのことを巨悪だなんて信じてなかったのかもね。あいつは、そう、この窓ガラスにぼんやり映っている僕そっくりの顔で、小さく泣く僕そっくりの声で、僕と同じ名前をした、もう一人の僕だったから。遊戯くんの科白を真似てるんじゃないよ。もう一人のお前さ、って最初に言ったのはあいつ、バクラだったんだ。
 あいつはどこに消えたんだろうなあ。もう一人の遊戯くんは冥界へ帰っていった。でもあいつはそんな門、くぐらなかったんだろう? 何千年前の姿は砂になって、デュエルに負けた姿は沈黙の剣に切り裂かれて、大邪神の姿は光に砕かれて、じゃあ僕の中にいたお前は一体誰で、どこに消えたのさ。
 台風のせいで昨日から雨が降っている。東京はエアコンもいらないくらいの寒さだ。僕は冷たいガラス窓に頬を押し当てる。風のうなる声、叩きつける豪雨と、天から地の底まで轟かせる雷鳴。この混沌のどこかに? 灰色の世界のどこか、虚無の渦の中、お前がどこかにいないか、僕は今でも時々探す。今日の誕生日、一人ぼっちになったのは、台風のせいじゃない。僕はお前に会いたかったから、一人になったんだ。これならいつお前が帰ってきたって、人目を気にせず抱きしめられるから。

 夢を見た。
 夢だと分かっていた。僕の身体は空を飛んでいたから。強く吹く風に乗って、降る雨を辿って森の上に落ちた。
 雨の森を僕は歩く。木の葉の上で弾かれて降る雨は優しくて、僕の身体は柔らかく濡れる。シャツが濡れて、触れる傷跡がちりりと痛痒が走る。懐かしい痛み。古い痛みだ。
 僕は霧のように降る雨の中でバクラを見つける。バクラの姿は雨に濡れた鏡に映るように輪郭が曖昧だ。だから僕は彼に触れてやる。彼が僕の姿をきちんと見ることが出来るように。僕の声を確かに聞けるように。僕に触れて、僕のことを抱きしめられるように。彼が忘れてしまった自分の姿を、僕は自分の中から分け与える。
「バクラ」
 僕が呼ぶと
「獏良…」
 彼が呼ぶ。
「ヤドヌシ」
 僕が教えると
「宿主…」
 彼は懐かしそうに言う。
 僕は彼を抱きしめて、間近で彼の顔を見る。僕そっくりで、僕じゃない。懐かしくて、ハッとする彼の顔。
「おかえり」
 僕は言う。彼は何かを言おうと口を開く。

 甘い匂いが鼻をかすめる。
 目を覚まし身体を起こすと、床の上で凍えていたあちこちの関節が音を立てる。ちょっと痛いなあ。
 膝の上からノートが落ちている。でも散らかしていた本は一つに積み重ねられていて、その上に白い皿がのっている。
「あ」
 僕は思わず声を出しそして、甘い、と思った。カスタードクリームの味。皿の上には、シュー生地のこぼれかす。
 夕方の迫る暗い部屋の中を、僕は見回す。そっと闇の中に身を乗り出して、囁く。
「…食べた?」
 声は響きもせず夕闇に吸い込まれる。背後ではまだ雨が降っている。風が少し止んだようだ。雨音も弱い。雷鳴が遠い。海の向こうでかすかに喉を鳴らしている。
 僕は闇に向かって囁き続ける。
「帰ってきていいんだよ」
 白い影を探す。
「僕、いつまでも待ってるから」
 背後を灰色の混沌が通り過ぎてゆく。僕は頬についたクリームを指で拭い、キスをする。
 今度はキスさせてね。いいじゃない、男同士だってさ。お前は僕なんだもの。甘いキス、待ってるよ。だから、今度は僕の目の前に帰ってきてね。それで、さっきの続きを言ってね。
 ただいま、って言ってね。






宿主ハッピーバースデー。

BGM:逢いびきの森で/中谷美紀