L −エル−

L-6 Listen to rain whisper




 いつからか薬を飲むことに抵抗がなくなってしまった。それが悪いことだとはバクラは思わない。雨が続くせいか、洗濯物を表に干せないストレスが溜まっているのかと天秤に掛けて、どちらも同じじゃねえかと自分に馬鹿らしさを覚えた時、素直に薬を飲もうと思った。去年の梅雨のことだ。何故か日付まで覚えている。六月二日。アラビア数字の「6」をひっくり返せば、宿主の誕生日の九月二日になるから、その印象だろう。頭痛薬を取り出して白湯で腹におさめる時、気分は既に軽くなり始めている。宿主。白い錠剤。白湯。
 今までバクラにとっては、痛みとは死に向かって刻まれるものだった。闇のゲームを支配するマスターであった魂に染み付いた感覚だ。遡れば、人間であった頃から痛みを表に出すことなど出来なかった。痛みは弱みであり、そこを付け入り奪ってきたのであって、逆にそれを見せればこの身がどうなるかは分かりきっている。
 だから痛みを口に出すということは、たとえ宿主から「言ってくれなきゃ分からない」と教え諭されても、そうそう易く出来ることではなかった。バクラの具合の悪いのに気づいていた宿主が、頭痛薬はここ、と場所をわざわざ冷蔵庫に移し変えてくれていて、夕食の準備に頭痛を押し殺しながら冷蔵庫の扉を開いたバクラが、その扉から滑り落ちた小さな箱を拾い上げたあの雨の午後。帰宅した宿主に、おかえりと一言声をかけただけだったのに、宿主は黙ってバクラを抱きしめた。夕飯の匂いが心地よかった。宿主の首筋に顔を埋めると、雨音は更に遠ざかった。
 頭痛薬を飲む。湿気が酷い。掃除機をかけても、匂いが鼻につくような気がする。空気を入れ替えたい。晴れの匂いのする、からりとした空気に。
 別に駄洒落のつもりはないが、からりねえ、と思い夕食を唐揚げに決める。今日は外に出ずに、教育テレビとお絵かきに夢中になっていた子バクに声をかけると、一緒に買い物に行くと言った。リビングにはチラシの裏が何枚も散らばっていた。三枚のブルーアイズの絵を見つけて、バクラは舌打ちをする。
 カッパを着せ、子供用の小さな傘を持たせる。カッパの黄色を子バクは、えらい人みたい、と言う。じゃあその辺を歩いている幼稚園児や小学生はみんな偉いんだな、と言うと、みんな、おうさま、と言った。

 最近、宿主は、いつか、という漠然としたエジプト旅行の話をしなくなった。その代わり、本気でそれにかかる費用を算出し、また海馬に連絡を取ったりしている。
「僕とお前のゲームのアイデア、売れると思う?」
 それを海馬コーポレーションに売って、どうしようと言うのか。
 深夜、二人きりで幾度となく子バクの将来の話をした。子育てに悩むようになるとは思わなかった、と宿主は笑いながら少し眉を寄せる。
「我儘になる。モンスターペアレンツじゃないけどさ、子離れ出来ないって分かるなあ」
「まだ子離れって歳じゃねえだろ」
「でもね、僕、ずっとこのままの生活が続いたらって」
 思ってた、と宿主は小さな声で言って、テーブルの上に突っ伏した。だらりと伸ばされた手に触れてバクラは、今日の話はここまでだ、と言った。
 ふふ、と宿主が笑う。
「こうしてると夫婦みたい?」
 それなら、と場所を移して夫婦らしいことをすると、快楽で悩み事を誤魔化しているみたいだ、と泣きそうな顔になるので、他のことなんか考えんな、オレを見ろ、と囁く。
「…お前だって、一生、僕でいいの?」
「オレは三千年お前を待ってたんだよ」
 残り百年もないのだ。もう一生離すものかと言うと、本当に珍しいことに、宿主の方から好きと囁かれた。

 目の前を小走りに掛ける小さな自称王様は、道々でカタツムリを拾ってはカッパにくっつける。汚いからやめろと叱ると、今度は傘の上にくっつけ始めた。最終的に、グリコを買ってやらねえぞ、という脅しで屈した。
 子バクは商店街では人気で、特にスーパー以外の店のおばちゃん達に受けがいい。それを利用して鶏肉は肉屋で買う。若干のオマケに、宿主を真似た笑顔で、ありがとう、と言うと脂が更に追加される。ニヤリ、と笑うのはもう十メートルは行った後だ。
 スーパーで約束どおりグリコを買ってやる。子バクは歩きながら食べようとはせず、帰宅して盗賊王を待つようだった。ただ、食玩だけは待ちきれずに取り出す。マシュマロンの消しゴムだった。バクラはまた舌打ちをした。
 帰り着き、玄関でカッパを脱がせていると、ちょうどフードの継ぎ目のところにカタツムリが一匹残っていたのが分かった。
「かう」
「無理だ」
「じゃあ、うえきばちにのせる」
「こいつはなあ、葉っぱ食っちまうんだぞ」
 バクラは通路から外に放り投げようとしたが、子バクは、にがしてくる、と言って、わざわざ一階まで降りてカタツムリを放しに行った。
 子バクが戻ってくるまで、バクラは通路から外を眺めた。雨雲は巨大な魚の腹のように、意志をもって動いているかのようだった。風の流れが速い。更に降るのだろうか。それとも明日には晴れるだろうか。雨雲は街ごと飲み込むかのように、ごうと低い音を立てて空を行く。
 ようやく子バクが戻ってきて、玄関のドアを閉めた。湿った匂いに、明日こそ晴れればいいと思った。
 唐揚げは揚げたてに限る、と帰宅した盗賊王が空腹を訴えるのを待たせ、熱々をテーブルの上に載せる。子バクが喜んでレモンを絞る。バクラは上顎を火傷しそうになるが、盗賊王はがつがつと次から次へ口に放り込む。宿主は何だかおとなしい。
「具合でも悪いのか?」
 宿主は笑って首を振り、別に、と言う。すると子バクがもぞもぞとポケットを漁って、はい、と宿主にグリコを一粒差し出す。
「げんきのもと」
「ありがとう」
 盗賊王が何か言いたげにバクラを見て笑う。バクラは黙って盗賊王の皿に乗っている唐揚げにレモンの半分を絞ってかけた。

 皿を洗っていると、宿主が後ろから抱きついた。腰に手を回し、ぎゅっと全身を押し付ける。黙ってそれを許していると、更に後ろから子バクを肩車した盗賊王が抱きついてきて、押された腹が潰れる。
「離れろ!」
「ケチ」
「けち」
「けちー」
「邪魔すんな!」
「酷い、バクラ。僕より皿洗いが大事なんだね」
「んなことねーよ! 片付けが出来てねえと怒るのはお前の方じゃねーか!」
「野暮だなあ、てめえ。そりゃ後半言わなくても良かったぜ」
「黙れ盗賊!」
 盗賊王はへっへっへっとわざと下卑た笑い声を残してリビングに引っ込む。
 しかし宿主は離れなかった。バクラは皿洗いを再開する。もう離れろとは言わない。
 ただ、ふと手を止めて
「お前の不安、分かったぜ」
 と言った。
 うん、と宿主がうなずく。
「チビのこと」
「うん」
「お前も言えよ」
「僕、結構言ってるよ」
「無理とかすんな」
 すると宿主はバクラの背中で深く息を吐き、ゆっくりと「好きだよ」と言った。

 ベッドの中で、カタツムリの話をした。宿主は嬉しさが喉に溜まっているような、くすぐったそうな声で笑い、僕らの自慢の子、と囁いた。その夜は手を重ね合わせて眠った。






お題「鯨とブランコ乗りの雨傘」