L −エル−

L-2 Lying down ever noon




 急に足元がなくなったと思ったら僕は頭から真っ逆さまに空に向かって落下していて、高層ビルや東京タワーや、せめて雲とかにつかまることは出来ないかな、とこれを夢だと自覚している僕は思うけれど、夢の中の僕の身体は上手く動かなくて、落下速度は恐ろしいほど速いのに、身体を包む空気はゼリーのようで、手を持ち上げようとするのも難しい。その内、あたりが暗くなって自分が宇宙まで落ちてきているのに気づく。頭の向かう先には月があった。これは落ちているんだから、月の地面にぶつかったら痛いだろうな(最悪、死ぬだろうな)と思うけれども、夢だからいいかとも思う。(目覚めるまで一度、体験してみる? 現実世界では決してリセット出来ないこの体験を?)
 真っ白で、細かな、まるで粉のような砂が舞い上がり、僕の身体はトランポリンの上で跳ねるような着地をする。砂煙が晴れると、そこは僕が住んでいるマンションの屋上で、空はどんより曇っていたが、足元の街は道路が一面、逃げ水の水色の蜃気楼に光っていて、街が晴れた空の上に建っているみたいだ。
 僕は屋上の端に立ち、対角線の向こうを眺める。フェンスも、手摺もない、ただのコンクリートの平面の屋上。夢から覚めるために飛び降りるなんて映画もあったし、マトリックスの中の試験は、自在のイマジネーションで向かいのビルに飛び移ることだった。僕は晴れ空の中に飛び込むために走り出す。足が軽い。身体も軽い。今度は飛べる。今度は空の中に飛び込める。コンクリートの縁を蹴って、飛び出す。

「宿主!」
 頭のてっぺんから重い音がして、直前に聞こえた僕を呼ぶ声も遠ざかる。目の中がちかちかする。鼻が熱い。重たい痛みが脳の中心から頭全体に広がっていく。
 何やってんだよ、と痛みの膜の向こうから聞こえる。僕は何度も瞬きをし、鼻を押さえ(鼻血が出てるんじゃないかな)、くぐもった声で「落ちました」と言うと、バクラが呆れて僕を抱き起こす。
 やたら慣れた感じの左手が無造作に何枚かのティッシュを出して僕の鼻に押し当てる。バクラは僕の頭を触りながらため息をつく。バクラが触ったところにコブが出来ているのが分かる。
「……痛い」
 ようやく涙が出てきた。
 バクラは僕の身体をソファに横たえ、今度は落ちるなと念を押して氷を取りに行く。僕は鼻に押し当てられたティッシュを見る。血の赤。
 ソファから落ちたんだ。昼ご飯が済んで、僕は眠っていたんだろうか。時計はまだ一時を過ぎたばかりで、今日は月曜日なのにどうして僕は家にいるんだろう。今日は何時だろう。あれ、違う、何月だろう。外は晴れている。月が見えない。
 立ち上がり、ベランダに出る。洗濯物、干してない。今日は何曜日だったっけ。八月二日で、昼ご飯はそーめんで、マヨネーズをかけるかどうかで軽く論争した。
 アスファルトの道路は溶けそうで、遠くに陽炎が立ち上がるのが見える。空がよく晴れているから、ビルも上に伸びている。このマンションも、ぐんぐん上に伸びている。僕はマンションの手摺から身を乗り出し、ぐんと首を伸ばして空を見る。
「な…にをっ…」
 しゃがれた声がして、乱暴な手が僕をベランダに引き戻す。振り向くとバクラが青ざめている。
「なに…が?」
「何がってお前…」
「落ちたんだ、僕」
 バクラの顔はみるみる歪んで、僕の身体を引き摺るようにソファまでつれてくると、そのまま自分の上にのしかかって、さらに顔面に氷の入ったビニール袋を押し付けられた。
「頭冷やせ!」
「顔」
 バクラは怒っている。でも、こんな風に怒ることなんてなかった。彼はいつも自分の不機嫌を直截僕にぶつけるだけだった。
 僕は手を伸ばして氷を頭に当てる。
「ごめん」
 顔はいよいよ凶悪に歪んでいる。
「じゃなくて」
 そうだった。僕はバクラの手を握る。さっき腕を掴まれた、あれはバクラが僕に与えた久しぶりの痛みだった。
「ありがと」
 僕の上から退くタイミングを逃したバクラが顔を背ける。僕はもう片手でバクラを抱き寄せる。
「ふふっ、重い」
「退くぞ」
「退かないで」
 顎のすぐ下にあるバクラの頭にキスをして、僕は囁く。
「ここにいて」






お題「君に午時に永久に」