L −エル−

L-1 Little emotion in the kitchen




 朝からしっとりと湿った風が暖かく洗濯物を干すのを躊躇っていたら正午を境に降り出した。リビングは部屋干しのシャツがカーテンのようにあちこちに垂れ下がり落ち着かないので、バクラは一日台所で過ごした。
 風はぬるかったのに、台所は雨が降ると急に冷え込む。バクラは椅子の上に足を上げ、膝を抱えるようにして雑誌を読んだり、子バクのやり残していったPSPをいじったり、夕食の準備には早いがジャガイモの皮を剥いたりする。昨日、工場のパートの帰りに新玉を買った。ベーコンがあるから、ジャーマンポテトでもいい。ポテトサラダでもいい。ただし生クリームを使ったマッシュポテトは不評だった。
 生きている人間のような思考だと思った。もっと言えば主夫の思考だ。宿主と二人きりのあの頃だったら、そんな状況や自分に腹が立っただろう。しかしバクラはイモの皮を剥き終わるとレンジに入れ、冷蔵庫から玉葱などを探す。盗賊王が一緒に暮らすようになってから、何故かニンニクが切れたことがない。裸足を冷たいフローリングに下ろし、しゃがみこんで野菜室を覗く。その冷気や、野菜の匂いに懐かしさを覚える。
 十一月の寒さもそうだ。雨の匂いもそうだ。台所に立ち、まな板を洗い流す感触もそうだ。全て、自分の記憶に溶けた懐かしさがある。自分があの砂漠に住む血に飢えた復讐者でだけあったならば、自分が世界を滅ぼすことのみを願う邪神でだけあったならば、このような感情は生まれるはずがなかった。
 白い手。白い腕。宿主そっくりの身体だ。魂だけでなく、この血も分け合ったのだと、時折急に感じることがある。それは直に肌を触れ合わせるような時ではなくて、意外に、彼の側にいない、こういった一人きりと時に感じられることだった。
 レンジが音を立てる。ジャガイモの立てる湯気が鼻を掠める。三時半。夕食の準備には早い。いや、作っておいて温めてやればいいだけだ。フライパンに火をかける。刻んでおいた玉葱とベーコンと、ニンニク、その他、彼らの好きなもの。
 油が跳ねる。ジャガイモの表面の美味そうに焦げる色、調理油の匂い。雨音が一際大きく聞こえ、ただいまー、と子バクの声。リビングでバタバタと足音。
「おら、暴れんじゃねーぞ! 埃がするだろうが!」
 そんな科白が自然と出ることに、今でも少し照れがあるというか、ケッ俺様が、と思わなくもないが、台所に顔を出した子バクが
「ただいま」
 とバクラの顔を見て言い、
「おけーり」
 と振り向いて返事をすることには、もう慣れた。
 子バクはよじ登るように椅子に座り、あー!兄ちゃん勝手にモンハンやったー!と文句を言う。進めといてやったんだよ文句垂れるな寧ろあがめろ、と言うと、ありがとう、でも兄ちゃんのバカ!と子バクは膨れながら新しいアイテムを買いに行く。
「…あのなあ、チビ」
「んー」
「あんまり悪い言葉使うんじゃねーよ」
「何で。兄ちゃんも使ってるのに」
「俺様は三千年生きてるからしょーがねーんだよ。でもお前はまだガキだろうが」
「……まっとうに生きないと兄ちゃんみたいになるってこと?」
「おお悪かったなパート社員でよ!」
「だいじょうぶだよ。おれ、ハンメンキョーシって言葉知ってるし」
「くっ……」
「盗賊兄ちゃんもいるし、宿主もいるし、亀のゲーム屋にも行くし、シャチョーん所にも遊びに行くし、おれ、若いから可能性ムゲンダイだもん」
「………」
 バクラはコンロの火を止めた。フライパンに蓋をし、何も載っていないまな板を見る。
「お前、今夜何が食べたいよ」
「にく!」
 こういう部分は変わらないのだと苦笑しながら、バクラは冷蔵庫からミンチとピーマンを取り出し、子バクが文句を言うのを聞き流して、ピーマンの肉詰めを作る。
「ピーマンいーやーだー!」
「可能性が無限大なんだろうが。食え」
 バクラは子バクに見えないように少し笑いながら、次の料理に取り掛かる。






お題「台所の小六月」。小六月=11月