擬似生命線




 左手、人差し指の付け根。皺と平行に走っていたので、起きてすぐには気づかなかった。ふとした瞬間に(通学路で本田と出会った。挨拶をして鞄を持ち替えた、その時だ)微かに痛んで、傷があることを知った。血が滲むほどではない。しかし薄っすらと赤く染まっている。鋭利なもので、紙ほどの薄い刃物で、そっと裂いたような傷。カッターナイフでも抱いて寝たかな、と獏良は思った。工作用のナイフを、昨日、一本なくした。ペーパーナイフの代わりに使って、何気なく手放した。次の瞬間には、どこにあるかが解らなかった。さっきまで持っていたはずなのに、と思って見た左手。実は手放していなかったのだろうか。
「本田くん」
 何気なく振り向いた本田に手を広げて見せる。
「怪我しちゃった」
「そんなん唾つけときゃ治る」
「舐めてくれるの?」
「馬鹿」
 獏良は指の付け根を少し舐める。肌の塩辛い味。血の味はしない。
「怪我すると、否応なく生きてる気がする」
 聞かせるともなしに呟くと、隣で本田が溜息をついた。
「…異論はねえけど、お前が言うと何だかなあ」
「心配?」
 本田が立ち止まった。獏良もつられて立ち止まる。朝日の差す静かな道。学校へと続く古い坂道。住宅を隔てた向こうの道路を走る車の音さえ聞こえる。明るい、空虚な静けさ。心配っつうか…、と本田は口の中で呟いて、獏良を見る。獏良を越して向こうに、何か記憶でも漂っているかのような視線を投げる。そして一瞬、確かに目が合う。自動的なほどに、獏良の頬に笑みが浮かぶ。
「…何だかなあ」
 本田は俯き、いや、どうってこたあねえよ、と獏良に言って歩き出した。






2009.7.19