闇より




 遠いところで音楽が流れている。全てのものの輪郭は曖昧で、霧か霞のようだった。バクラはその白い平野を(これを平野と呼んでいいのかさえも解らない。足元の感触さえ曖昧だ。丘陵を下るようでもあったし、小さな球の上を永遠に歩き続けているようでもあった)、ひたすら前へ前へと進み続けた。
 開いた途端、獏良了の心の部屋の扉は消滅した。最初から何もなかったかのように、広がるのは白い、全てが曖昧模糊とした世界だ。一度砕かれた心、砕かれた魂。しかし再び息を吹き返すことの出来た、あの魔術が有効だったのも、闇のゲームの力なのだ。
 白いそれに触れる。あたたかいような気がする。どんな記憶だったのだろう。痛みの記憶を消すために、同じように獏良は彼を形成するほとんどの記憶を粉々にしてしまったのだ(オレが手を貸した)。
 眠りと死、生と死の狭間に獏良はいる。バクラはすい、としゃがみこみ、足下に潜るような動きをする。白い霧が消える。不意にあたりは暗くなる。

 音楽は今、はっきりと彼の耳に聞こえていた。タイスの瞑想曲。何故この音楽なのかは解らない。獏良が特別気に入っていたという記憶もない。

 暗闇ではなかった。夕闇のように、青い視界の中に全ての輪郭は明確に浮かび上がっていた。墓場、記憶の墓場だ。砕かれた記憶の残骸。かつて獏良了を形成していた全ての喜びと痛みと悲しみだ。バクラはその一つを拾い上げる。掌が焼けるような、恐ろしいほどの冷たさだった。そして、重い。しかしバクラは取り落とさない。じっとそれを見つめる。耳を傾ける。
 闇のどこかから流れるタイスの瞑想曲。ヴァイオリンの響きは冗長すぎるほどに長く伸び、壊れかけたレコードのような歪さがあった。さっきの白い平野で聞こえた時は、まだそれらしいメロディに聞こえたが。
 バクラは手の中のものに、(ああ)、得心した。ブラックホールと同じ原理だ。重すぎるこれが歪ませている。記憶も、バクラの視覚、聴覚さえも。
 手の中のそれを砕くと、端から脆い素材であったかのように、乾いた粒子が指の間から零れ落ちる。砂漠の砂のようだと思った。ヴァイオリンの響きは一瞬、その正常な速度を取り戻したかのように思えたが、すぐにバクラは自分の耳が重く引き摺られるのを感じた。砕けた記憶の残骸は無数に、見渡す限りを墓所として転がっているのだった。
 歪んだ音楽は悲鳴のようにひび割れた。バクラはわずかに眉をひそめ、腕を広げる。(ああ、この声だ。オレの中で五月蠅く泣き喚き続ける)。まずはこの闇がぬるいのだと憎悪を持って睨めつけてやると、タールのように濃い、息苦しいほどの、(オレにとってはあまりに馴染みだ)、闇が覆った。悲鳴は止んだ。(勿論だ)。バクラは嗤う。
 再びバクラは歩き出す。自分の作り出した闇の平野を。足の下に怨嗟の悲鳴の遠い響きを聞きながら。






2009.7-8