清浄は恒河沙たる刹那 朝焼けが地の果てを焼き始める、その際。川面はまだ暗く、夜の気配を残している。足の裏に触れる湿り気を帯びた粘土質の泥。肥沃な土と緑の匂いが、東岸から川面を渡って漂う。ナイルは静かに夜明けを待っている。 大きな影が西岸のほとりに佇んでいた。手に足に、身体に纏う溢れるほどの黄金。それは彼が担いだ袋の中にもぎっしりと詰め込まれている。足下には棺を敷いている。丹や黄金で飾られた棺は泥にまみれ、逞しい足に踏みしだかれている。 バクラは棺の蓋を蹴り飛ばした。中のミイラは痩せこけ、茶けた包帯に巻かれていたが、彼の仇である姿に違いなかった。先王。アクナムカノン。その首に縄をかける。彼は対岸を見据えた。 「ディアバウンド」 バクラが呼ぶと、より大きな影が背後に付き従うように現れた。人の姿、蛇の形の尾を持つ異形。蛇の尾はずるりと泥の上を這い、主の足元に頭を垂れる。 この朝が来た。この日が来た。あの王宮を壊してやる。この王国を奪ってやる。世界を闇で満たし、全て奪って、このオレが唯一の王となる。 「いくぜ」 川を渡ろうとする。その時だった。 ナイルのほとりは静かだった。しかし、その瞬間のそれは静かすぎた。せせらぎも、かすかな風の音も、背後の砂漠のうなりも、それどころか常に腹の底で渦巻く闇の声さえ音をひそめた。耳を聾する、完全なる無音。妙だ。バクラは身体を僅かに強張らせる。 そこへ白い光が、空から滴るように一筋、落ちてきた。光は宙でくるりと渦を巻き、動きを止める。 バクラは声もないまま、それを見つめた。光の中には人影があった。が、人ではないのかもしれない。光の中で軽く膝を抱き、眠るように目を閉じたその姿は、光と同じくあまりに白く、この世のものとは思えなかった。 それはゆっくりと目蓋を持ち上げた。その両眼は真っ直ぐ、岸辺に佇むバクラを捉えていた。 「…見つけた」 意志のある声が川面に響いた。それは白い足で空を蹴り、一息の内にバクラの目の前に舞い降りた。 「ナンだ、てめえ…」 バクラは険のある目を細める。 「魔物か。神官団がもうオレに気づいたってのか」 それは少年の姿をしている。が、精霊獣などと違った意味で、異形だった。肌も、髪も白い。輪郭はぼんやりとしていて、実際に触れれば透けてしまうのだろう。そして胸には、見紛うはずもない、彼の肉親らを溶かして作られた千年アイテムの一つ、千年リングがかけられている。 バクラはディアバウンドを動かそうとした。しかし意に反して、彼の忠実なしもべは動かなかった。目の前の少年顔はそれを見て微かに笑った。 「無理だ。動かない。ボクはこの世界が目を覚ます一瞬の隙を狙って、ここに来ている。ボクには時を操る力はないけれども、ここにお前の記憶があるならば、ボクはお前の心に入り込んで、その一瞬を、体感時間を引き延ばすことなら出来ると踏んで、ここに来たんだ」 そして成功したみたいだね、と少し笑う。 バクラにとって、意味の解らない言葉だった。しかし見れば川は波を立てた形のまま動かず、太陽はいつまで経ってもその姿を現さない。常なら美しい躍動をする精霊獣も、石像のように動かなかった。 少年の顔は微笑から悲しみに耐えるものに変わった。 「ボクには時間がない。お前を止めようと思ったんだけど、お前は行くんだろうね」 「…ふん、オレ様の目的を知ってるのか」 少年の視線が足元に落ちた。足下に引き摺られ、踏まれたミイラ。白い手が組み合わされ、胸に押し付けられる。少年は弱々しく首を振った。 「お前が一体なにをするのか、ボクは知らない。でもお前の目指す場所は解っている」 「なら、そこを退きな。魔物だか亡霊だか知らねえが、オレ様を止めることはできねえよ」 すると少年は、くく、と喉を鳴らして笑った。 「ボクが魔物や亡霊に見えるの?」 爪先が軽く川面を弾くと、その姿はふわりと浮かび上がって、高く飛び上がりすぎた身体は宙で反転し、逆さまになりながらバクラを見つめ、手を伸ばす。 白い手は僅かに放光していて、なめらかな指先がバクラの顔の、傷の上を滑る。 「ボクにはすぐ、解ったのに」 「……何者だ」 ふふ、と少年は柔らかく含み笑いをし、両手をバクラの頬に添えた。 「ボクの名前は獏良。お前と同じ名前を持った、お前の運命。お前の未来」 「同じ名? 運命だと…?」 そうだよ、と少年は囁く。そして真っ直ぐにバクラの目を見つめ、言った。 「お前は今日の戦いの為、三千年の時を越えてボクを探し求める。ボクを乞い求める」 「何…、何だと…」 「ボクはお前の終焉の地。全ての終わり」 白い顔はそっと近づき、バクラに唇を触れさせた。ぬくもりが一瞬生まれ、消える。 「ボクの名前は獏良了。お前の永遠の宿主だよ」 次の瞬間、東の空に太陽が昇った。ナイルはせせらぎを立てながら悠然と流れ、朝焼けの焼いた空は青々と染まってゆく。 バクラはナイルの水をすくい上げ、乱暴に顔を拭った。 「永遠の…何だと……?」 そして、それさえ魔物の惑わす言葉だったのかもしれない、と嗤った。
盗獏本を作り終える頃に書いたこともありそれ成分高めのファンタジー色強め。
恒河はガンジス川らしいですが、許して。広辞苑片手にタイトルつけました。 |