モノクロームの忠誠





 闇の中に身を浸し、身体を休める。それは魂。しかしバクラのそれは形を持たない。かつて奪った黄金を身に着け、王宮に踏み入った盗賊だった。あの褐色の肌。逞しい腕。黄金に彩られた指。
 ぐねり、と黒い指が捩れる。バクラは嗤う。たかが、盗賊。かつての我が身は駒に過ぎない。概して彼は手中の全てを操るプレーヤーであり、マスターである。
 黒く染まった腕を伸ばす。彼がその目的を思い出す時、彼は彼の望む形になる。彼の望む力。彼……既に彼という表現さえ相応しくはない。闇を統べる大邪神たるこの姿。鋭い爪の伸びた指は、人の手の逞しさを超越して硬く、冷たい。
 神のカードは三枚、遊戯の手に揃った。エジプトのジオラマは日に日に完成へと近づいている。最後の戦いを思うたび、この姿は正体をなくす。獏良了を宿主としてからのバクラは、その身体を好んでいた。だが、扉の向こうに封じ込められたあの力、本来自分が持ち得、この世の全てを塗り潰し得る力を、今度こそ取り戻し得るのだと思うと、その姿は揺らぐ。
 褐色の腕が渇望する。ファラオに、神官どもに、この国の全てに復讐するために、オレはその力を手に入れる、と。
 黒い鉤爪は、浅ましい程にその両腕を開く。今度こそ、全てを闇で呑み尽くしてやる。小賢しい人間どもの光など一呑みに、この世を混沌に還してやる。
 そして白い指は、見知らぬ悪意に恐怖する。宿主の眠りは次第次第に深くなり、今では、バクラの存在にさえ気づかぬ程、深く眠っている。
 しかしバクラは、好んで獏良了の姿を取っていたのだ。
 それを、忘れてしまう。
 黒い鉤爪でカードを取り上げる。これで戦うということもないとは限らない。元々は宿主である獏良了が蒐集したカードだった。しかし、それを取り上げるバクラはそのことを失念している。
 バクラは黒い指で彼の駒を、己のしもべたちの姿を確認する。
 ネクロフィア、死霊伯爵、首無し騎士。それぞれの姿が浮かび上がる。
 このカードは欠かすことが出来ない。ウィジャ盤。
 ネクロツインズ。ネクロソルジャー。
 黒い指はカードを捲る。
 ふと、風が吹いたような気がした。バクラは顔を上げる。ここは彼の心の部屋、闇の底だ。風など吹くはずもない。しかし手の中のカードを見て、バクラは嗤った。
「お前か」
 白い素足が目の前に下りる。ゆったりとした服を纏ったそれは背に生えた二枚の羽、天使の翼と悪魔の翼を広げ、軽く羽ばたくようにバクラの目の前に舞い降りる。
「『心変わり』」
 その顔は宿主である獏良了と同じものだった。白い肌。黒目の大きな瞳。自身の無罪を証明するような微笑み。
「今度こそ、オレ様の忠実なしもべとして働くか?」
 宿主そっくりの顔で『心変わり』は小首を傾げてみせる。
 バクラは軽く嗤った。
「食えねえ奴だな」
 黒い指で背後を払うと、姿を現していた他のモンスター達が消える。裏返されたカードは闇に呑まれ、バクラの手の中に『心変わり』だけが残る。
「来い。主の下へ」
 バクラは嗤いを収めて『心変わり』に命じる。
 しかし命じられたことに対して、『心変わり』は意外なほど素直に従った。羽をたたみ、白い足を折り、バクラの足下に跪く。形さえ明瞭ではない、主の足下に、従順に頭を垂れる。
 バクラは手を伸ばした。その手は黒かったが、人の形をしていた。
 完全に人の、獏良了を模した姿ではなかった。角も、牙も、禍々しい黒い翼も隠し得るものではなかった。
 奇形の邪神。その姿は神でなく、また人でもない。
 バクラは足下に跪く『心変わり』の姿を見下ろし、今の己の姿は己に似合ったものだと思った。
「顔を上げろよ、『心変わり』」
 その言葉にも『心変わり』は素直に従う。バクラは黒い手を伸ばし、その顔を持ち上げる。
「今度こそオレ様に忠誠を誓うか。オレ様を裏切るようなことをしないか」
 言葉にしながら馬鹿らしいことだと思う。
 『心変わり』。ただの駒だ。しかも敵のモンスターに裏切りを促すこのカードそのものに、意志はない。『心変わり』は意志さえ持たぬ、ただのカードにすぎない。
 だが、宿主の姿を模して現れた。かつてこの姿で、バクラを敗北へ導いた。
「お前は、オレ様の手札じゃねえか」
 黒い指が開く。カードを手放そうとする。
 しかし次の瞬間、『心変わり』は立ち上がり、バクラの頬に手を添えた。
 キスに体温はない。バクラの唇は冷たく、『心変わり』に温度はない。しかしそれは確かに重なりあい、ゆっくりと離れる。
 バクラは、再び嗤いを浮かべた。
「ああ、そうだ」
 カードは己の手の中にある。ならば。
「お前は、オレ様のものだ」
 黒い腕を伸ばして抱き締める。
「しもべは、主を裏切らない」
 黒い指を、真っ白な唇に添える。
「お前も」
 もう一度、キスをする。『心変わり』は優しく目蓋を伏せて、それを受ける。

          *

 獏良了が目覚めた時、テーブルの上にはカードが散らばっていた。中央にはデッキが組まれている。獏良了はそれを取り上げ、一枚一枚のカードを確認する。ネクロフィア。死霊伯爵。首無し騎士。ウィジャ盤。ネクロツインズ。ネクロソルジャー。
 カードを捲る指は、ある一枚で止まる。
 『心変わり』。
 獏良了は白い指でそれをつまみ上げ、そっと胸の千年リングに押しつける。
「お前の心を変えることなんて、」
 出来ないのに。