フロム・スカーレット、トゥ・ドーン part.3





 タイルの上に座り込み、浴槽にもたれかかる。水やお湯にも匂いがある。それは水の中に溶け込んだ不純物の匂いなのかもしれないけれど(そうそう、布団を干した後の日向の匂いみたいに)、でも僕は一人でお風呂に入りながら湯船を覗き込み、静かな安心をしている。水面には黒い影が映っていて、それは逆光の中でわずかに判別しにくい輪郭をした僕の顔だ。まばたきをすると、小さな滴が飛んで、二つ三つと波紋を作る。
 遊戯くんの言葉が何度も蘇る。
 忘れられなかった、だから…。
「おい」
 ガラス戸の向こうからくぐもった声。
「のぼせてねえだろうな」
 懐かしい声。僕はこの声を聞いたあの時、すぐに解った。バクラの声だと。
 大丈夫、と返し、湯を浴びる。肌が冷えていた。ぱりぱりと薄氷を溶かすように、お湯のぬくもりが肌を流れて、浸透する。僕は息を吐き、お風呂から上がるために立ち上がった。
 寝室は冷たい風が吹き込んで、すっかりひえていた。僕は窓を閉め、ちょっと佇む。街灯の明かりの反射や街明かりと重なるように、かすかに自分の顔が映っている。僕はそれに向かって笑いかけようとして、微妙な顔になる。口元がわずかに開いて、目元が笑うために細められたのに、目の奥がさめていて。僕は胸の少し下に手を当てる。風呂上りの熱が、伝わってくる。
 据え膳よろしく、僕はベッドに寝転ぶ。今夜は、今夜だからこそ、するかもしれない。バクラが風呂から上がるのを、僕は目を瞑って待つ。
 廊下を踏む足音。彼の身体の重さはもう覚えた。ドアを開ける音。近づいてくる気配、湯の匂い、風呂上りの人の匂い。
 柔らかな熱が覆い被さる。
「ヤドヌシ」
 僕は目を開ける。闇に目が慣れて、バクラの顔がよく見える。
 バクラはキスをしなかった。僕の上に覆い被さったまま、じっと僕を見下ろしていた。僕の顔や、肌の質や、骨の在処をその目で探すように。視線はバクラの声にも似て、優しく僕の肌を探索する。
 バクラは何も言わない。僕はとうとう口に出した。
「…思い出したの?」
 バクラの眸の色。外の光がわずかに照らす夜の色。ふ、とその眸が細められ、バクラは身体を起こす。僕も起き上がり、追い縋る。
「ねえ、思い出したんじゃないの? さっき、全部思い出してしまったんじゃ…」
 でもバクラは、首を振った。
「ちがう」
 そして、僕の手を取り、懐かしそうに見た。
「みえただけだ」
 バクラは僕の手を持ち上げ、特別なことでもするように頬に触れさせた。
「うらやましいぜ」
「…何?」
「おれさま、ヤドヌシのすがたを、してたんだな」
 きゅっと目の奥が熱くなった。
「うつわとして、だけじゃねえ。このからだ、そっくりに…」
 バクラの腕が伸びて、僕の身体を抱きしめる。本当に力いっぱい、痛くなるくらい抱きしめる。僕はじっとその力に自分を委ねて、委ねすぎて我慢できなくなるくらい痛くなって、もうギブ、と腕を叩こうとしたところで、力は緩んだ。
 小さく、笑っていた。バクラは小さく笑って、掠れた声で言った。
「ヤドヌシ、あったけえなあ」
 この二十四時間がそのためにあったかのような呟きだった。
 眠る時のバクラは全裸だ。掌で触れた肌は冷えていた。僕は腕を伸ばす。腕を伸ばして、バクラの身体をぎゅっと抱きしめる。僕が満身の力を込めて抱きしめてもバクラは痛いとは言わない。けれど、聞いたことのないような小さなため息を、僕の耳元でついた。
 僕らは眠る。抱き合って眠る。
 夢も見ずに、深く眠る。

 遠くで戦隊モノのオープニングテーマが聞こえる。あれ、と僕は思う。いつもなら起きている時間だ。眠りすぎ、というほど寝てもいないんだけど、身体が重くて、僕はのそっと身体を起こす。ベッドには僕しか眠っていなかった。
 僕の心臓は静かだった。僕は、まだ冷たい床に足を下ろすと、ぺたぺたいわせながらリビングに向かった。
 リビングにも、誰もいなかった。テレビのスイッチが入っている。僕はソファにだらしなく腰掛け、それを眺める。戦隊モノが始まった。
 結局、三十分それを見た。続けて仮面ライダー。美少女ヒーローアニメ。全部見る。
 お腹が空いていることに気づいた。クラシックの番組が始まったのを機に、僕はキッチンへ向かう。コーヒーをいれ、食パンには蜂蜜を塗った。
 カチャ。小さな、しかし硬質な音がした。懐かしい音だった。僕は振り向く。
「宿主」
 手の中で踊るダイス。懐かしい眸の色。僕は朝日が眩しくて目を細める。
 ああ、あいつもこんな風に笑えたんだろうか。
「おはよう、バクラ」
 僕は笑う。
「にく」
 バクラが笑う。
 今朝も、冷蔵庫の中に肉はない。
 バクラは灰色のスウェットを着る。僕はボーダーのシャツに久しぶりに袖を通す。二人でコンビニで、ちょっと割高な卵とベーコンを買う。バクラはコンビニの袋を持っている。僕はバクラと手を繋ぐ。
 鍵を開けるために手が離れる。僕は先に靴を脱いで上がる。でもバクラは動かなくて、玄関に佇んでいる。
「バクラ?」
「宿主」
 バクラは口をもごもごさせていたが、ゆっくり、一音ずつ発音した。
「た、だ、い、ま」
 ああ、僕はもう千年リングの所持者じゃないけれども。バクラは真っ直ぐ僕を見ている。僕は両手を広げる。
「…おかえり」
 照れたらしいバクラはずかずかと上がってきて、乱暴に僕を抱きしめる。慣性の法則で振り回されたコンビニの袋が壁に激突する。でも僕は気にせず、鼻をくすぐるバクラの匂いを吸い込んだ。日の匂い。乾いた砂の匂い。まだ新しいスウェットの匂い。僕の部屋のベッドの匂い。何だか正体の解らない懐かしいものの匂い。
 僕はもう一度バクラの耳元で、おかえり、を言った。割れた卵は美味しい卵焼きになった。