フロム・スカーレット、トゥ・ドーン part.2





「ありがとう」
 と、僕は言う。
 一日が二十四時間あるのは、きっとこのためだ。物凄く健全な言い方をすれば生きるためなんだと僕は今、思う。
 振り返れば密度の濃い一日だった。早起きしてお弁当作って、初めてバクラと一緒に外へ出て、三千年前の話とここ一年の話をして、遊戯くんと話し合おうと決めて、すぐに出会って…、そしてリバース、ファンタジーな展開を経てもまだ、今日は四時間余り残っている。そして想像もしなかったことに、僕たちは三人で夕食を食べている。メインディッシュは野球ボール大のおにぎり。おかずは焼き海苔と、塩。
 僕の言葉に、遊戯くんは海苔を巻いたおにぎりから口を離した。僕はちょっと後ろに下がって、頭を下げる。
「助けてくれて、本当にありがとう」
「い、いいよ、頭上げて上げて…」
 僕が顔を上げると遊戯くんは微笑み、おにぎりを齧る。
「そんな風にされると、照れるよ」
 実際に頬が少し赤くなっていて、僕には改めて遊戯くんの優しさが染みる。
「全部、話すよ」
「うん」
「聞いてくれる?」
「うん」
 僕も海苔を巻いたおにぎりを頬張った。塩と海苔だけなのに、しかも僕はおにぎりが本日三食目なのに、遊戯くんもさっきまで顔が青かったのに、おにぎりは美味しくて、割とどんどんいける。何も言わないバクラは米そのものの旨味を余すところなく味わっている。

 洗い物を済ませたキッチンからは清潔な水の匂いがする。テーブルの上には一応、日本茶が三人分置かれているけど、誰も口をつけない。
 僕は話した。エジプトから帰ってきた、あの日からの出来事を、午後十一時から翌朝六時までの時間帯を除いて、全て。うん、全部って言ったけど、流石にそこまでは話せない、これは、ちょっと…。でもたとえ真夜中の話をしなかった所で、僕は僕の感情に今日、気づいてしまったし、それこそが僕が遊戯くんに話さなければならないことの要なんだ。
 前々から話そう、話さなければとは考えていたけれど、いざ話し出すと、感情が先行するせいか話題はあちこちに飛ぶし、時間軸はしっちゃかめっちゃかで、結局、今日の話題に辿り着いた頃には時計の針も随分回ってしまった。
「ボクは…」
 僕は改めて遊戯くんの大きな瞳を見る。
「ボクはね、遊戯くん、今度こそ……今度こそバクラと一緒にいてやろうと思うんだ」
 一緒に。この言葉はブーメランみたいに僕の胸に返ってきて突き刺さる。そうだ、本来ならば存在しないはずの人間と。魂と。でも僕は顔を上げる。
「いてやろうって言うのも凄く偉そうな言い方だけど、ボクは……、ボクは今度こそ」
 僕は冷めた日本茶を一気飲みし、自分でおかわりをいれる。
 遊戯くんもつられるように日本茶に手を伸ばして、そしてバクラを見た。大きな瞳で、じっとバクラを見つめ、静かに口を開く。
「バクラ……さん?」
 ここでやっぱり僕らにつられるように日本茶を飲んでいたバクラは盛大に吹いた。
「汚いな!」
 僕は思わず叫んだけど、叫びながら既に笑い始めていて、以降笑いが止まらない。バクラは湯呑を片手に掴んだままゲホゲホと噎せている。遊戯くんは両手え湯呑を抱いたまま、あたふたする。
「え、僕、何か変なこと言った…?」
「ううん、いい。遊戯くんはいいよ。すごくいい。悪くない」
「てめ…ヤドヌシ……」
 僕は笑いすぎてお腹が痛くなる。結局、布巾を取って来てくれたのは遊戯くんだった。
「ごめん…、いや、うん、本当にツボった」
「バクラ、だ」
 噎せすぎたせいか顔が赤くなったバクラが言った。
「バクラでいい。わかったか、ユウギ」
 その瞬間、遊戯くんの目の奥がきらっと光った気がした。多分、それは遊戯くんが驚いて、目を見開いたせいで、電気の光を反射したんだろう。でも、遊戯くんの目の中で光ったその、きらっ、は彼の感情の何かと何かを繋いだスパークのように、僕には一瞬見えた。
「うん」
 遊戯くんはバクラに向かって手を伸ばした。
「よろしく、バクラ」
 バクラは差し出された手をちょっと黙って見つめていたけど、不意にぎゅっと握り返した。ぎゅっと。ぎゅぎゅーっと。遊戯くんの顔色が変わる。
「……った痛い痛い痛い!」
「へへっ」
 こっちを見て得意そうに笑うバクラ。
「へへっじゃないよ、ちょっと、バクラ!」
 僕は身を乗り出してバクラの頭にチョップする。バクラは笑いながら手を離す。っわー!と叫びながら遊戯くんの手はすっぽ抜ける。
「何やってるんだよ!」
「あいさつ」
「馬鹿!」
「びっくりしたあ…」
 強く握られて痺れるらしい手を振りながら、遊戯くんは痛みの残る顔で笑う。
「まるで違う人みたいだね」
「え?」
 遊戯くんは自分の右手を見つめる。バクラが掴んだ手。今、強く握り締めた手。
 この手に押された時、解ってたのかも、とバクラは。
 遊戯くんの右手。三千年前のファラオとそっくりの姿をした、器の。
「遊戯くん…?」
 獏良くん、と遊戯くんが僕の名を呼ぶ。顔が引き締まって、ふともう一人の遊戯くんの面影が掠める。遊戯くんは突然テーブルに身を乗り出すと、僕の頭を引き寄せて、額をこつんと触れ合わせた。
「え…、遊戯くん…?」
「…やっぱり、勝手に解るなんて便利なことはないね」
 すぐ側で遊戯くんの笑顔にちょっと寂しそうな色が混じる。悲しそうというか、残念そうというか、わずかに眉を寄せて、ちょっと伏し目がちになって。
「ボク、記憶をもらったんだ」
「記憶…」
「あのエジプトのジオラマの中の、千年パズルの記憶の世界の」
 遊戯くんの目が、真っ直ぐ僕を見る。
「もう一人のボクの記憶」
 僕の身体は動かないけど、脳がくわんと揺れる。
 二人ともちょっと体勢に無理があったので、椅子に座りなおす。
「僕が知らなかったあの世界での記憶が、見えたんだ」
 遊戯くんはバクラが掴んだ右手に、そっと左手を添える。まるで祈っているみたいなポーズで、遊戯くんは静かに言う。
「もう一人のボクが話してくれなかったことも」
 遊戯くんのバクラを見る瞳は、これまでと少し違っていて、清濁が入り混じっている。それを覆うように、瞳の色はやっぱり悲しそうに見える。バクラはその瞳を受けても、ただ押し黙っていた。夜のような色の眸を、ただ静かに据えて。
 バクラと遊戯くんを巻き込んだ赤い風。僕らが出会った日、部屋の中に吹いた赤い風。バクラが流し、流させた血の色。彼の纏う服の色。バクラの眸から消えた赤。
「バクラ…」
 僕は恐る恐る尋ねる。
「もしかして…忘れたの…?」
「わすれるわけねえ」
 バクラの眸の中にあるのは、あるものは憎しみだったに違いない。それは三千年の間消えなかった。千年リングの闇の中でバクラがバクラで在り続けた証。でも、わずかに淀んだその眸の中にあったのは、バクラが忘れたくても忘れられない何か。
「わすれらんねえよ」
 静かな声でバクラは言った。
「うん」
 自分の右手を抱いたまま、遊戯くんがうなずいた。
「忘れられない。だから……」
 遊戯くんはそれを言いながら、自分で何か気づいたみたいだった。彼は口の中で小さく、だから、と繰り返してバクラを見た。
 ふと、バクラが笑い、右手を差し出す。さっき遊戯くんが握手のために手を出したのとは違う、ちょっと芝居がかった仕草だ。
「ユウギ、こんどは、おれさまとデュエルだ」
 その言葉に遊戯くんは、守るように抱いていた右手を離し、笑った。
「受けて立つよ」
 その顔には、もう一人の遊戯くんの面影があった。でも、やっぱり丸い瞳の、遊戯くんの顔で、僕は闘いの儀を見ているはずなのに、ああ遊戯くんって強くなったんだ、と思い知る。
 二人は軽く手を握った。赤い風はもう吹かなかった。

 遊戯くんはいいって言ったけど、流石に土曜サスペンスが半分も終わったような時間にそのまま帰すのは今日の諸々を考えても申し訳なかったので、タクシーを呼んだ。マンションの下まで、僕とバクラは見送りに出た。
「みんな心配してた。特に本田くん」
「そのうち出てくるよ」
「待ってるね」
 遊戯くんの手が軽く持ち上がる。僕たちは、ぱちん、と掌を打ち合わせる。
 ひとけのないマンション前の通りを、タクシーが角を曲がって見えなくなるまで、僕は手を振る。
「…バクラ」
 まだ昼間が暖かくなり始めたばかりで、夜は寒い。街灯が煌々と照らしているせいで、星空も見えない。マンションって本当に無機的な人工物なのに、どうして人の匂いがするんだろう。僕は背後のバクラの気配や、マンションの窓明かりが急に恋しい。
「バクラ」
 目を瞑って振り向く。ゆっくりと、目蓋を開く。
「なんだ?」
 街灯に照らされた、褐色の肌。僕は裸の胸に自分の額を押しつける。バクラが肩に手を置く。ずっしりした重量。ご飯の匂い。
「バクラ…」
 あいつを呼ぶように、僕はバクラの名前を呼ぶ。