求めよ、さらば与えられん





 僕が持っているのは一冊の本で、そこには僕の十七年間が納められている。アカシックレコードのように僕の細胞の一つが誕生してから、たった今のこの心の部屋に沈み込んだ瞬間まで、刹那とて余すことなくここには入っている。
 部屋の隅から暗くなる。僕の部屋の壁紙の白と混じり合い、侵蝕された部分は薄い青から深い闇に染まる。闇を引き連れて、あいつは来る。
 気づけば僕は高い梯子の上に座っている。昔見た大聖堂のように天井の高い部屋。僕は上を見上げるけどそこにはステンドグラスも何もなくて、でも青から闇に侵蝕されている形をみると、本当に聖堂のような円錐形をしているのが解る。遙か上に頂点が見えて、闇はそこを目指して上ってゆく。
 闇を背にしてバクラは現れる。宙にふわりと浮かんでいる。最初から飛ぶことを知っているみたいな、ひどく落ち着いた感じで、僕の正面に浮かんで、僕を見ている。僕は笑う。
「今日は何が欲しい?」
 僕は本のページをランダムに開く。聖堂の写真、スペイン、サグラダファミリア。
「ここは父さんと、母さんと、天音の四人で行ったんだよ。仕事じゃなくて、本当の旅行。僕が七歳の夏休み」
 ページを破る。
「今日はこれがいい?」
「…まだ、何も言ってないぜ」
「でも欲しそうな顔してた」
 バクラは僕の手からページを受け取ると、チョコレートでも食べるようにぱくっと口の中に入れてしまう。
 ぞっ、と音を立てるように周囲が闇に染まる。僕は梯子の上でバランスを崩し、落ちる。足が空を蹴った頃は、木の梯子が軋む音も遠く。風のない闇の中を、髪がなびくのが不思議だけど、そういえば僕はどこから落ちて、どこへ落ちるのだろう。
「宿主」
 首の下を柔らかく受け止める腕。バクラが僕を横抱きにして闇の中に佇んでいる。
「ボク…、いつの間にお前の部屋に来たんだっけ…?」
「さあなァ…」
 バクラがとぼけてるのは解るけど、でも大した問題じゃない。
「ねえ、ボク、また何か忘れた?」
「ああ」
「ボクの記憶、美味しかった?」
 バクラは何も言わず、僕にキスをする。
「…足りないかな」
 僕は囁いて、バクラの首に腕を伸ばす。
 手から本が一冊滑り落ちる。僕の生きた十七年の全てが、かつて納められていた本。僕は僕の記憶をバクラに与える。バクラが欲しがるからだ。僕は思い出を忘れるんじゃない。本当に失ってしまう。でもいい。バクラがそれを持っている。バクラの中には闇の他には何もないから、与えても与えても満ちることがない。多分、この本の中身を全部与えても、砂漠に水が一滴落ちた程度しかならないんだろう。でも、水の一滴分でもバクラの喉が潤えばいいと思う。
「ねえ、僕の名前呼んで」
「宿主」
「名前だよ」
「…了」
 嬉しくなる。胸の奥がむずがゆく震えて、涙と笑いがいっぺんに出てきそうになる。僕は自分からバクラにキスをする。
「了」
 バクラはキスの合間に囁く。
「今度は、この記憶をくれよ」
 了と呼ばれるのが嬉しくて、僕はそれにうなずいてしまう。僕が、今日がいつなのか思い出せないのは、こうやって近い記憶から、ねだられるままにバクラに与えているせいなんだろう。
 僕はもうすぐ消えてしまうバクラの唇の柔らかさやぬくもりを一生懸命覚えておこうとする。いつも、バクラとのキスはハッとするくらい初めての喜びがあって、僕はバクラの唇が柔らかいことにさえ、感動するのだ。

(BGM/LILIUM)





季節の終わり





 昼休みはお弁当を食べる生徒達の姿がある屋上も、この時間はひっそりとしている。それどころか学校全体が息を潜めているような静けさに包まれていた。昼休みの後の最初の授業。心地良い居眠りと、退屈の気配。校庭はまだ賑わしい方で、体育教師の吹くホイッスルが響くたび、青い空の下には透明な塔が建つように見える。
 音が視覚化される感覚について、僕は人と話さない。誰も、それを理解してくれなかった。両親さえ、不思議な顔をして、黙って頭を撫でるだけだった。妹? 天音とは話す必要はなかった。僕らは同じ風景を見ていたから。
 誰も帰らない部屋で耳を澄ますように、僕は目を瞑る。目蓋の裏にも青空はあって、遠い上空、太陽の光にかき消されて光る星の姿も見える。僕には風の姿も見える。僕の髪を揺らす夏の終わりを告げる風。きっと、明日か明後日、急に長袖が恋しくなるのだろう。
 僕にはもう一つ見えるものがある。そいつは僕がもたれかかる手すりの上に、ちょっと浮いている。空を背景に、半分透けている。幽霊じゃない。
「バクラ」
 僕は呼ぶ。僕の半身。
「何だよ」
 僕にだけ聞こえる声で、バクラは答える。
「ほら、また見えるよ」
 僕は宙に向かって手を伸ばす。校庭を指さす。
「あそこに、ほら、また、透明な塔が…」
「ふ…ん」
 目蓋を開く。バクラは僕の隣、手すりにはもたれかからず、ポケットに手を突っ込んで校庭を見ている。
「…ボク、おかしい?」
「どこが」
「全部」
「何でだよ」
「お前が見える」
「当たり前だろ、宿主なんだから」
 それが全部の理由でいいんだとでも言うようだ。バクラの指は透けていて、僕の頬をすり抜けるけど、僕には撫でられたように感じる。
「授業、サボっていいのかよ」
 僕は手を伸ばしてバクラの頬を触ろうとする。指はすり抜けて、バクラの耳や髪まで伸びる。
「いいんだよ、こっちの方が大事だから」
 額が触れ合う。溶け合うのかもしれない。空に光が溶けるように。風が空の青に溶けるように。
 僕は目蓋を閉じる。バクラの唇が触れるのを待つ。風のような気配が撫ぜる。
「バクラ」
 僕は名を呼ぶ。
「バクラ」
 僕の半身。
 目蓋を開くと、バクラはいない。僕は制服の上から胸をなぞる。もう、僕の胸に千年リングはない。僕のものではない。
 僕はおかしい?
 今でもお前の姿が見える。お前の声が聞こえる。
 お前のことが、こんなにも好きだ。
 風が髪を撫でる。でも僕にはバクラの手が見えるし、バクラが微笑むのが見える。僕は微笑み返し、目蓋を閉じて夏の終わりの風を胸一杯に吸い込む。
 明日は、エジプトに旅立つ。





オンリー・ユー





 僕の師は、父ではなかった。誰だろう、このことを教えたのは。この秘密を僕に教えたのは。TRPG。大きな物語のために役割を演じる。人形は気づいていない。自分を動かす指があることを。だけど、その指は自身の指なんだ。マトリョーシカ、入れ子構造のように、人形が人形を動かし続ける。意志はどこに宿っているのだろう。物語に? 人形自身に意志は宿るのか? そして物語とは何だろう。運命。活字でも空を飛び交う電波でも安売りされまくっているこの言葉が、僕には大事だ。あいつが運命と言った。僕はそれだけで身体の中から溶けそうだ。
 僕に僕の役割を教えたのはバクラだったのか、僕の運命だったのか。それとももっと大きな歴史の流れだったのだろうか。ともあれ僕の役割は人形だった訳だけど、それをあいつが運命と呼んだことで物語は逸脱を生んだ。
 一つの身体の中で、隔たれた魂の狭間で、僕らが出会うのは心の部屋と呼ばれる場所。そこには何もなかった。僕の見る限り、何も見えなかった。柔らかく、生温かい闇がいつでも僕らを包み込み、あいつは擬似的に僕が纏っている服を剥ぎ取り、僕もあいつの、僕そっくりの姿に手を伸ばして髪を掻き上げ、耳元にキスをする。夏の暑さも冬の寒さもない、春秋の心地良い風も吹かない、ひどく静かで穏やかで二人の息しか聞こえない場所で、指を這わせ、肌を溶かす。
「馬鹿……、宿主、オレ様を見ろよ」
 バクラの声は愉快そうに焦る。
「身体、溶けちまってるぞ」
 腕の中で水のように形をなくして流れ出す。キスされたところが唇になって、そしてまたバクラの腕の中に戻ってくる。
「宿主」
 キスをしながら、ねだるようなバクラの声。
「宿主…」
 唇が重なったままで、僕はねだることが出来ない。また言って。運命だって言って。僕だけだって言って。お前だけだって言ってよ。快楽の発火点はそこにある。





爪先から、全て





 足指の先を弄られる感触。目を閉じても、その指先のやたらに優しい触れ方が解って、わずかに体温が上がる。
「普通に起こしてよ」
 抗議の声を上げ、薄目を開けると、持ち上げた白い足指の先に噛みつこうとしているバクラがいた。
「ちょっ…と、何やってんの!」
「美味そうな爪」
「え、え、え……?」
 獏良の戸惑いを他所に、バクラは躊躇なくつまみ上げた足の親指を口に含んだ。
 それ以上の抵抗が出来なかったのは、爪に、バクラの舌が触れるのが解ったからだ。
 痛点のないはずのそこから湧き上がる感覚に、獏良の心臓は小さく震える。
「や、め……」
 細い声を漏らすが、それを遮ったのは自分の息だった。
「宿主」
 爪から声が伝わる。身体の中を伝わって、脳に到達するまでにあちこちの神経で火花を散らす。獏良は両手で顔を覆った。頬が熱を持って、赤くなっているのが解った。
「宿主」
 濡れた親指がひやり、と冷える。今度は、ちゃんと耳から聞こえる声。囁くような呼び声の後、足の甲に唇が触れる。
「風呂、入ってこいよ」
「…関係ないだろ、ここじゃ」
「いいから入ってこい」
 手は足首を撫で、裾から潜り込んだ指先がふくらはぎを辿る。
「隅から隅まで綺麗に洗って、たっぷり身体を温めてこい」
 バクラは持ち上げた獏良の、裸足の足の裏に口づけし、舌を這わせ、言った。
「全部、喰ってやるからよ」
 内臓を直接舐められるような声だった。




2009年3月から4月。