フロム・スカーレット、トゥ・ドーン part.1





 春の匂いだと思う。暗い部屋の中、ぬるい熱気が鼻にまとわりついて息苦しい。バクラが窓を開けた。吹き込む風にカーテンが舞い上がり、向かいのマンションや、街路に明かりの灯り始めたのが見える。遊戯くんが立ち上がり、電気を点けた。窓辺に立つバクラと、戸口に立つ遊戯くん。二人の姿が露わになる。二人は黙ってお互いを見つめた。
 不意に遊戯くんが親指と人さし指で自分の頬を抓り
「夢、じゃないよね」
 笑顔から、少し困ったような顔になる。
「うん」
 僕はただ、うなずく。
「ヤドヌシ」
 バクラが呼ぶ。それを聞いた遊戯くんは、大きな瞳に不思議な色を浮かべた。懐かしさ、と呼ぶにはその感情はまだ早い。戸惑い。悲しそうにも見える。遊戯くんが、もう一人の遊戯くんと別れてから、まだ一月だって経っていないのだ。
 それなのに、このバクラの姿が夢でないならば…。遊戯くんの目にはどう映るのだろう。僕の胸に千年リングがないように、遊戯くんの胸にも千年パズルの姿はない。僕たちが所有者であったそれらは、今、全ての役割を終えてエジプトの深い深い砂の底に眠っている。
「ファラオ、の、うつわ」
 呟くバクラの顔を、遊戯くんは真っ直ぐ見つめる。僕はその瞳を見つめ、バクラがどんな顔をしているのかと思う。僕はバクラの顔を直視することが出来ない。千年アイテムを束ね、神を使役するファラオ。クル・エルナ唯一の生き残りである盗賊。もしバクラが、再びあの憎しみを取り戻したら?
 あの時でさえ僕は、友達の力になることも、あいつの味方になってやることも出来なかった。僕の心臓が軋むように痛む。今度はもうこの身体を犠牲にすることさえ出来ない。
「夢じゃないんだ」
 遊戯くんが呟くと、バクラがゆっくり遊戯くんに向かって近づいた。僕に見えるのは褐色の肌をした裸の背中だけ。殺気はない。でも、恐い。バクラが腕を伸ばす。遊戯くんはわずかに身構えるけど、退きはしない。
 バクラは掌を遊戯くんの胸の上に押しつけた。
「ない…」
「…うん、そうだよ」
 遊戯くんは深く、一つうなずく。
「アテムは、もう、いない」
 遊戯くんは、その瞳を、バクラから逸らさない。
「冥界に、還ったんだ」
 少しだけ沈黙が流れた。空気はひやりと冷えてしまっていた。ついさっきまで鼻にまとわりついていた春の匂いが、もうしない。
 バクラは弱い力で遊戯くんの胸を押し、その反動のように後ろへ下がる。そして、どっかりと床の上に腰を下ろした。ふーっと息を吐く声。そのまま、だらしなく首を反らし、逆さまに僕を見る。赤い眸。それが、わずかに歪む。悲しい? 口惜しい? 解らない。
 今度は遊戯くんが、そっと近づいてくる。バクラは反らしていた首を戻し、遊戯くんを見上げる。遊戯くんは右手を胸に当て、言葉に迷っているみたいだ。
 ふ、と笑う気配がした。遊戯くんの肩が強張った。バクラが、遊戯くんの右手を掴んでいた。
「この手に」
 その時のバクラの声は、彼がいつか古代のエジプト語を立て板に水で話したみたいに、長年つむいできたもののように滑らかだった。
「押された時、解ってたのかもなァ」
 風が、巻き起こった。バクラの髪がばさばさと乱れ、遊戯くんの前髪もぶわっと持ち上げられ額が丸見えになって、学ランの裾が翻る。強い風。それは二人の間から生まれて、渦巻くように見え、その上僕にはそれが赤い風に見える。バクラと遊戯くんの姿が、風の向こうで夢のようにかすむ。僕は名前を呼ぼうとしたけれど、喉がからからに乾いて声が出ない。
 急に遊戯くんの膝から力が抜けて、かくんと座り込む。風が止み、持ち上がっていた前髪が、いつもの癖毛に戻る。
「ゆ、め……?」
 遊戯くんは呆然と呟き、バクラに手を伸ばす。
「今のは夢? でも……」
 逆説の接続詞を言いかけて口を噤み、そしてバクラに掴まれた右手を見て遊戯くんは、
「ああ」
 と深い息を吐いた。
「これが、もう一人のボクの記憶」
 遊戯くんは目を閉じ、疲れ果てたようにバクラにもたれかかった。バクラは遊戯くんの小さな身体を支えながら、俯き加減に僕を見る。乱れた髪の間から眸が覗く。眸が…。
 赤くない。
 バクラ、と呼ぼうとするけれど、喉が嗄れて声すら出なくて、それでも手を伸ばしてみるけど、これも届かない。青? 紫? 夜明け前の空みたいな色だ。バクラはその少し暗い色の眸をわずかに伏せ、そのままの姿勢でじっと動かなくなる。
 動かない二人。硬直した僕。
「これが」
 掠れた声でバクラが言った。
「おれさまのすがた、か」
 ごめん、話が全く見えません。

 キッチンからいい匂いがするのはバクラが料理しているせいで、何で僕がしないのかと言うと、僕は遊戯くんと一緒にソファでぐったりしているからだ。遊戯くんはクッションを枕にして、半分横になっている。行儀悪くてごめんねー、と本当に申し訳なさそうな小さな声で言う。けど、夕方からの僕は行儀悪いとかいうレベルをぶっちぎっていたので、いいよ気にしないでー、とこちらも弱々しく返す。
 と言うか、僕はいまだに現状の把握が出来ていなくて、遊戯くんの身に何が起きたのか、どうしてバクラの眸の色が変わったのか皆目解らない。っていうかさ、眸の色が変わるって、オカルトと言うより、もうファンタジーの域じゃない? 漫画とかアニメとかラノベとかさあ。
 あの後、遊戯くんは気を失ったらしく、バクラがリビングのソファに連れて行った。僕も全然本調子じゃなかったけど、ただでさえ話についていけてないのに、これ以上置いてけぼりにされたくなくて、自力でリビングまで行った。
 バクラは少し血の気を失った遊戯くんの顔を見下ろして、今にもため息をつきそうな顔をしていた。
「バクラ……」
 戸口にもたれかかった僕は、唾を飲み込んで、ようやく名前を呼ぶ。バクラが顔を上げる。
 眸の色。紺色のような、深い青にも見える。決して明るいブルーじゃない。夜の明ける前の空が何枚もの空気の層を透かして見えるような、いろんな色が重なりあったみたいな青だ。
 僕が続きを何も言えないで、見慣れない眸の色に惑っているとバクラは
「めし、つくるぜ」
 と、目を細めて笑った。
 で、ソファのシーンに戻って、さっき目が覚めた遊戯くんが、ごめん、を繰り返したところ。
 バクラは眸の色が変わっただけで、目が見えなくなった訳じゃないし、今こうして料理までしてくれている。遊戯くんの方も辛そうと言うか、すごく考え込んでて話しかけづらい雰囲気で、僕はソファの隅に座ったまま、炊き上がりのご飯のいい匂いをかぐくらいしか出来ない。
 しか? ちょっと待て、しか出来ないって、何その弱気。僕はつい数時間前、遊戯くんとちゃんと話そうと決めた。で、いきなり会ってびっくりゲロで、その上何も出来ない声も届かないって、ただのヘタレの泣き言じゃないか。
 バクラがこの部屋に現れてから、僕はずっと弱気なんだ。バクラがいつ消えるのか不安だし、僕らのこれからがどうなるのか解らなくて不安だ。実際そうだけど。戸籍も住民登録も食費も、何の問題も解決していないけど、でも僕は何度も何度も、明日は強くなろうって思った。そこからあんまり進んでない。でも、今日はちょっと進んだ。僕はもう、バクラの身に何が起きたのか、何が僕たちの運命を運んだのかを知っている。そして、遊戯くんは今、目の前にいる。
 もうこの身体は僕一人のもので、僕は自分の耳で遊戯くんの話を聞いて、自分の口で遊戯くんに気持ちを伝えることが出来る。僕の意志で、遊戯くんと話し合うことが出来る。
 そう、さっきの歩道で、僕のことを心から心配して救急車まで呼ぼうとした遊戯くんに、僕はもう自分の口で、ありがとうを言える。
「遊戯くん」
 僕は声をかける。もう惑わない。躊躇わない。
 遊戯くんはクッションから顔を上げて、僕を見る。長い夢から覚めたみたいな半眼になってるけど、彼もちゃんと僕を見ていて、僕の声の調子に気づいていて、うん、とうなずく。
「話したいことがあるんだ」
「うん…」
「でも、その前に一緒にご飯食べよう」
「え?」
 僕はソファから立ち上がり、キッチンに振り向く。
「ね、バクラ!」
「おう!」
 いい返事を返すバクラの前には野球ボールくらいの大きさのおにぎりが並んでいる。
「それ、中身、何?」
「こめ」
 うん、と僕は強くうなずく。もう、めげない。