ディスティニー・ビフォア・ダーク





 音のない映画みたいだった。帰りの電車の中はあたたかくて、誰もがうとうとしていた。僕はバクラにもたれかかり、軽く目蓋を閉じていたけれど、岬の向こうに沈む夕日の放つオレンジ色の光が電信柱の影と交互に目蓋の上をよぎるのがよく解る。溶けそうな色をした車窓も、軽く目を閉じて僕の身体を支えてくれているバクラの姿も、光の粒子一つ一つから目に見えるようだ。夜など来ないかのような穏やかさの中を電車は走る。
 僕らが言葉にしたことの一つ一つがお互いの身体の中に溶けてゆく。リングのない今、僕らはようやく記憶を共有し、同じ悲しみに触れた手を繋ぎ、家路につく。バクラがそっと撫でるのは僕の左手で、指先で触れればそれと解る傷痕がある。
「バクラ」
 まどろみの中から僕は声をかける。
「今度、遊戯くんに会おう」
「ファラオのうつわ、か」
 僕は返事の代わりに首を縦に振る。バクラの手が僕の肩を引き寄せる。日向の匂いとバクラの匂いが溶け合って、鼻先を掠める。頭の上でわずかにうなずく気配。
「…ああ」
「会って、きちんと話をしなきゃ…」
 それきり、会話は途切れたけど、僕らはもう疲れるほどに話し終えたばかりだ。多分、それでもまだ話し足りないことは多くて、遊戯くんに会おうとすればそれは尚のことだけど、今はお互いに分け合った記憶をゆっくりと馴染ませて、ただ寄り添っていたかった。夕暮れの電車の単調な揺れは、沈黙さえ心地良いものに変える。
 バクラに寄り添い、短い時間、深く眠った。名前のない夢を見た。
 ところで、山登りは上りより下りの方が足に来る。周知の事実なんだろうか。僕は知らなかった。駅に着き、僕は立てなかった。改札を抜けたベンチに座り込んで空を見る。夕間暮れの静かな闇がひたひたとビルの間を満たしてゆく。僕の膝はじっとして掌で触れると笑っていて、骨が僕のものじゃないみたいに震えている。
 黄昏時は、誰そ彼だ。プルキンエ現象が起こす薄青い闇に、道行く人の顔も不明瞭になる。
 僕はバクラにおんぶをねだる。バクラは「だらしねえ」と笑い、僕を背中に乗せる。誰そ彼の薄闇の中ならば、十七歳、一七六センチのおんぶにも気づかれず、このままひっそり人混みを抜けて家に帰れるかもしれない。何せ、僕を背負っているのは盗賊の王。こういうのは得意なはずだ。
「そうでもないぜ」
 と、バクラは振り向く。
「え?」
「どうどうと、うまで、まちなか、かけたもんよ」
「わあ、大味…」
 そうだ、こいつ盗賊なんだ。泥棒とか、怪盗とは違うんだ。
 でも、僕らは案外、周りに気にされず人の多い通りを抜ける。ビルの屋根が低くなり、空が広くなる。まだ端の方には一際濃い橙色が夕方の名残りを残している。
「あ、一番星…」
 を見つけた瞬間、歩道の街灯が一斉に灯り、目の前のバス停で一人、バスを待っている小柄な人影が目に入った。
 特徴のある癖毛。僕が通う学校の学ラン。
 なによりその顔は、今度会いに行こうと、ついさっきまで僕が。考え。僕の友達。あの日から僕が気になって仕方ない。僕の。友達が立っている。目をまん丸にして、僕を見て。驚いて。
「獏良くん」
 遊戯くんが僕の名前を呼んだ瞬間、僕の脳と身体は一切の制御を断絶し、自分でもどういうことか解らないんだけど、こぽっとか軽い音がして身体から力が抜けたと思ったら、僕はバクラの背中で吐いている。まさかの嘔吐。
 まさかのって言うか。
 ええー……!?
 普通ないよねと思う。ないと思う。人の背中の上だよ。おんぶされてんだよ。もう一歩間違えれば頭直撃だっ……うわあああ考えたくない。っていうか背中でも充分にやばいものはやばくて、バクラの服なんか。それどころか僕の服だって。というか目の前に遊戯くんが。
「大丈夫!?」
 遊戯くんは、バクラの背中からずり落ちた僕のところに走ってきて、その姿を認めた僕はお腹の底から更なる第二波が襲うのが解るけど、意志の力で食い止める。食い止めたはいいけど、多分、喋ったらアウトだ。
「ヤドヌシ」
 バクラが呼び、遊戯くんがハッとして顔を上げる。僕はバクラの服を引っ張る。するとそれをどういう合図と取ったのか、バクラはTシャツを脱いで、被害に遭ってない方で僕の口を拭ってくれる。その優しさが急に辛くて、僕は喉の奥から迫り上がるものをちょっと堪えきれない。
「救急車!」
 遊戯くんが叫んで車道に向かって手を振る。そんなことしても救急車は来ないよ! っていうか呼ばなくていいから!
 そう言おうとしたけれども、僕の手はすっかり震えていて遊戯くんに届かないし、届いたところで僕の手は最悪なくらい汚れている。
 それでも何とか訴えようと、今度はバクラの足を叩くと、バクラは「よっしゃ」と何か凄く気合いを入れるので、僕は更に青くなる。待って、遊戯くんとはもっと落ち着いて話したいんだから、乱暴なことやめてよ!
 悲壮な顔を上げると、遊戯くんの隣で車道に向かって手を振り「とまりやがれ!」とか言ってるバクラがいて、脱力するというか、もう本当に訳解んない。どうしたらいいか解んない。
「駄目だ、止まってくれない…」
 焦り顔の遊戯くんだけど、まず救急車は走ってないよ、気づいて。
「よし…!」
 バクラが歩道の柵を乗り越えて車道に出ようとする。素手で止める気!?
「危ない!」
 遊戯くんが引き留めてくれるけど、半分くらいバクラに引き摺られて車道に身を乗り出している。本当に危ないから、二人とも…!
 ああ、僕が事の発端なんだけど、もう気を失っちゃいたい。気持ちが逃げかけたところで、遊戯くんの声が明るく響いた。
「タクシーだ!」
 二人が揃って大きく手を振り、何とか一台が歩道に寄ってくる。
 バクラと遊戯くんの二人に両脇から抱えられるように、僕らはタクシーに乗り込む。っていうか、え、後部座席に三人…。しかもバクラはやたらガタイがいいから物凄く狭い。でも遊戯くんも助手席には乗らずに僕の隣に座る。
「えーと、病院、病院に…」
 遊戯くんが運転席に向かって言うのを、今度こそ僕は遊戯くんの袖を掴んで止める。遊戯くんは振り向き、僕が首を横に振ると、僕のマンションまでタクシーを走らせてくれる。僕んちの住所、覚えててくれたんだ。
 タクシーの車内は密度の濃い沈黙で爆発しそうだった。運転手は僕が吐いた直後なのに気づいているし、遊戯くんは思い詰めた顔で僕の手を握ってるし、僕は顔面蒼白だし、バクラは半裸だし…。
 半裸って。いや、解ってた。バクラは僕の口を拭ってくれた後、あのTシャツをそのまま歩道に捨てたんだ。僕が吐いた上を隠すように。
「ごめん…」
 僕はようやく呟く。遊戯くんの手を握ってくれる力が、ぎゅっと強くなる。バクラの手が背中を抱く。二人の手があたたかくて、僕は目眩がする。俯いて、泣くのを堪える。でも視界はぼやけて、遊戯くんの手もよく見えない。
 何とか自分の財布からタクシー代を払い、僕はまた半裸のバクラにおんぶされてマンションの六階まで辿り着く。そして、遊戯くんも僕の部屋までついてきた。
 汚れた服を脱いでベッドに横たえられる。バクラが枕元で僕の顔を覗き込む。
「だいじょうぶか、ヤドヌシ」
 僕は浅くうなずく。さっきより随分マシになった。
「獏良くん」
 遊戯くんの声。ポカリの二リットルペットとコップを手に入ってくる。
「ごめん、冷蔵庫、勝手に開けちゃった」
 バクラと自堕落に過ごしてた分の買い置きが役に立った。
 飲む?と差し出されるけど、僕は首を振る。
「まだ…、多分、無理」
 すると遊戯くんは微笑む。
「そう…。じゃ、ここに置くね」
 遊戯くんの笑顔って、何か、ホッとさせられるなあ。何も心配しなくていいみたい…。僕もつられて微笑み、顔を上げる。
 ベッドの上に僕。枕元にバクラ。そして遊戯くん。
 心配…どころの話じゃないよね。