プリーズ・テル・ミー、ノット・ソフトリー





 三千年前のバクラの行為が赦されないものだと解っているなら、今の僕が恐れることなんか一つだってないのだ。起き抜けに、そう思った。誰が赦しもしなくとも、僕とバクラは朝日が昇ると目が覚めるし、お腹が空くし、醤油のいい匂いにお腹は鳴るし、焼おにぎりは美味しい。
「全部食べちゃ駄目だからね」
 僕は釘を刺す。
「お弁当にするんだから」
「べんとう?」
「さ、服着て。今日は電車に乗るよ」
 起き抜けのバクラは相変わらず全裸だ。
 朝の風は少し冷たい。でも、久しぶりに外へ出た僕には心地よく、バクラも両腕を上げて伸びをする。僕が先日バクラに買った服は地味な灰色のスウェットだったから、僕らは開店直後の店に寄って服を選ぶ。今度はファッションセンターじゃない。
「アクセも選んでいいよ」
 僕は言うけれど、バクラが選ばなかった。服は赤のTシャツで、上背もある上に肌の色の違うバクラはよけいに目立ったけれども、様になっている。
 ビルに埋もれるように建つ私鉄の駅は、普段のこの時間より人が多く、何故解るかと言うとかつてサボったことがあるからで、それもかつて僕の中にいたあいつのせいだけれど、今はその記憶にも微笑がもれる。ホームには小さい子供の姿が目につく。そういえば今日は土曜日だった。
 電車は座れなくもなかったんだけど、あちこち親子連れなものだから、僕らは遠慮してドアの側に立つ。遠慮はするけど、二人並んで車窓から射す光を浴びることは怖くない。
「ヤドヌシ」
「んー?」
「すわれよ」
 電車が停まる。何組かの乗客が電車を降りる。僕はバクラにもたれかかって、笑う。
「やーさしー」
 優しいついでにお弁当の入ったバッグを持ってもらう。バクラは手の中のその重みに「たりるのか?」と不安そうな顔をする。それでも炊飯器の中のご飯、全部おにぎりにしたんだけどなあ。
 線路は海岸線に沿って大きく湾曲し、バクラは黙って青い海を見ている。目が、遠い景色に吸い込まれそうになっている。僕は隣に寄り添って、小さな声で話しかける。
「ボクと一緒に見たんじゃない?」
「…どうして、わかった?」
「ボクも懐かしいと思ったから」
 バクラの魂が海を懐かしいと思うとしたら、それはリングの中から僕を通して見た記憶に違いない。彼が生まれ育ったのは、きっと水場からも遠く離れていたろう砂漠の谷間。乾いて朽ちた井戸の風景が、ふと頭をよぎる。
 終点まで乗っていたのは僕らだけではなくて、土曜日とこの気候を考えるとそれほど意外なことでもない。改札を抜けると小さな町の目抜きどおりが目の前を伸びていて、更にその先に道を斜めに横切るように山があって小さなトンネルがある。
 トンネルの入口でバクラは立ち止まった。暗闇の中を子供の笑い声が何重にも反響して響き渡る。それをたしなめるような母親の声も、さざ波のように幾重にも響く。ずっと先には小さな光点があって、それが出口だった。
「行こう」
 僕はバクラと手を繋ぐ。
 甲高い笑い声、息をひそめるような囁き。僕らは無言で歩く。軽やかに駆ける足音、暗闇の中で踏む砂利。光点はそれと解らぬスピードで少しずつ大きくなり、ある時急に目の前が開けたように感じる。出口に向かって子供が走り出す。僕らはスピードを変えず、ゆっくり歩く。
「おお」
 バクラが短く声を上げた。
 明るい日差しが目を射す。海を渡ってくる風は今朝吸い込んだものに似て、少し冷たい。浜辺は緩やかにカーブし、端はごろごろした石がそのまま崖に続いている。岬の端から見えるのはほとんど海ばかりで、ちょっと後ろを振り返ると海岸線と、遠くに街が見えた。
 僕らはしばらくトンネルの出口に佇んで、その光景を見ていた。何組かの親子連れが僕らを追い越す。その中で小さな子供が振り返り、Uターンして、僕らの前に立つ。物珍しそうに、バクラの顔を見ている。僕はバクラがどうするのか見ている。バクラは黙って子供の目を見詰め返していたが、急ににやっと笑った。その瞬間、子供の目が輝いて、キャー!っと奇声を上げながら逃げていく。バクラは僕を見て、にやっと笑う。僕もにーっと笑う。
 砂山を作る子供や、恋人繋ぎをして波打ち際を歩くカップルに背を向けて、僕らは崖沿いに歩く。砂浜は割と綺麗だけど、崖側は何の手入れもされてなくて雑草だらけだ。その中にもわずかに他と生え方の違う所があって、ガサガサと入っていくと、元は遊歩道だった朽ちた手摺りがあり、錆びた鎖と錆びた「立入禁止」の看板が行く手を遮っていた。
「あったあった」
 僕ははしゃぐ。
「一昨年だったかなあ、すっごい台風が来たときに崖崩れしたとか、ニュースで見たんだよね」
「はいんな、ってことだろ、これ」
 バクラは獣道のような遊歩道を見上げる。僕はうなずく。
「見るなと言われれば見たい。聞くなと言われれば聞きたい。これはオレのものだーみたいなふうに見せつけられると余計欲しくなるように、入るなと言われれば入りたいのが人の性だよね。どうかな、古代の盗賊王?」
「わかってるじゃねーか、ヤドヌシ」
 道なき道も、三千年前の砂漠でサバイバルに生きてきたバクラにすれば易いもので、頑健な足がその巨躯をぐいぐい上に押し上げる。僕はそこまで体力のある方じゃないんだけど、ここ何年かもう一人の存在が勝手して来た分の底力はあるから、やる気になればまあそこそこ行けなくもないし、大体僕は一応身長一七六センチあるんだ。色は白いけど、そこまでモヤシじゃない。それにバクラがいる。バクラが引っ張ってくれるお蔭で、随分楽に登れた。
 元遊歩道の辿り着く先は展望台だ。今は崖崩れのせいで平面が元の半分もないけれど、僕とバクラが立つには充分なスペースだった。何より見晴らしが物凄く良い。
 崖っぷちに立ち、僕は下を見下ろす。崖は台風のせいか、長年の風化のせいか抉れていて、真下には海しか見えない。ヤドヌシ、と後ろからバクラが呼んでいる。でも僕にはその声が急に隔てられたもののように、聞こえているけど、届かない。
 足下に海。でもあの辺りはまだ浅い。水面のすぐ下は岩場だ。足をほんの一歩踏み出せば、いいや、僕にその意志がなくたって足下があと三十センチ、崩れたら。
 僕は顔を上げる。眩しい空。風が髪をてんでばらばらに持ち上げる。うなじにひやりと触れる潮の匂い。そうだ、このまま目を瞑ってどこかに一歩踏み出せば、方向を間違えれば、たったそれだけで、僕は。
 振り向き、僕はバクラにタックルする。不意を突かれたらしいバクラはうおっと声を上げ、わずかに身体を揺らす。僕はバクラの胸に顔を埋めて
「ごめん」
 と言った。
「なにが。どうしたんだよ」
「ごめん、ボク、強がってた」
 恐れるものがないなんて嘘だった。自分の生殺与奪の権を握っていると実感した瞬間、僕は生きていることさえ。
「結構、怖かった」
 言葉に出す。バクラの大きな掌が僕の頭と背中を抱き締める。
 僕は天音のことを思う。天音は交通事故で死んだ。目の前をトラックが走り過ぎ、天音の姿は見えなくなった。それが最後だった。でもあの時トラックが走ってこなくても、僕はいつか天音と別れたのだ。いくら別れたくないと僕が望んでも、生きている限り、必ず。そう、僕が先に死んでしまうことだってあり得た。
ああ、こんなあやふやな生と死の境に立って、僕は。
「バクラ」
 生きていることも、死ぬことも、あっけなく怖い。その中で僕らが赦されないんだろうと思うと、それは怖いと同時に悲しい。その怖いは同時に甘美で、この世に二人だけみたいな悲劇性に酔いそうになる。二人でここにいることさえ怖くて、幸せだ。
 僕はバクラの身体に掌で触る。身体全体でいっぱいに抱きしめる。うわ、凄い。生きてるよ。分厚い胸板を越しても心臓の音が聞こえる。三千年前の魂が、肉体を持って生きている。
 ああやっぱり違う。赦されない悲しみに酔いしれるのは全然違うんだ、と僕は無闇に叫び出しそうになる。生きてくれていることが嬉しい。というか、多分、唐突に、僕は、バクラが好きだと気づいたのだ。
「…教えて、バクラ」
 顔を上げると、バクラが待っていたように笑う。僕も笑いながら、でも泣きそうに顔が歪む。
「全部教えて、お前のこと」
「ぜんぶ?」
 バクラは少し笑ったまま僕の顔を覗き込んで、言った。
 普通こんな展開なら、教えての意味を別方面にスライドさせてしっぽりいっちゃうんだろうけど、僕はこの上なく本気だし、バクラは多分そのことを解っている。それが次の返事だった。
「ヤドヌシも、おしえてくれよ? おれさまのこと」
 僕は強くうなずいた。

 三千年前の話は長かった。バクラの記憶はクル・エルナの惨劇から始まっていた。それより前の両親のぬくもりや、幼い時代の思い出も、きっとあったはずなのに、それらは全て奪われた憎しみを突き動かす原動力になって、いつの間にか形をなくしていた。おそらくは盗賊だったろう父、自分を生み慈しんでくれただろう母の姿を、もうバクラは思い出せない。
 まるで昨日のような、三千年前の出来事。バクラの話は色鮮やかだった。両手の指に光る黄金の指輪、浴びた血の色、王宮を含めて望む街の灯も、凍てつく砂漠の星の光も、黄金の中に溶けた同胞の姿も。
 僕はそれに耳を傾ける。あいつが決して語ってくれなかった物語。でも一時、確実にその記憶が、憎しみが、この身体に宿っていたのだ。
 昼のお弁当を挟んで、話は続く。バクラの声は、むっと湧き立つ草いきれと一緒に時々潮風に流される。でも、僕はそれを一言も漏らさずに聞く。
 最後の戦い、千年リングに魂が封じられ、バクラの言葉は途切れる。
「…まっくらだ」
 バクラはぼそりと呟いた。そして、僕に最初に出会った時見せたような、唇を歪めた笑いを浮かべた。
「ときどき、ひとのからだを、やいた」
 眸が赤く淀む。
「これじゃねえ、これもちがう。みんな、ちがう。だれもかれもちがう、ちがう、ちがう。ちがう、ばっかりだ。ふれるやつら、みんな、やいたぜ」
 バクラは足元の草を千切って、捨てた。
「ぜんぶやいて、まっくらだったのにな」
 腕が伸びる。えっ?と思う間に僕の身体は持ち上げられていて、何すんの?という悲鳴が飛び出る暇もないまま、バクラは僕を高く抱き上げて崖っぷちに立つ。ちょっ、危ない! 落ちる!
「ヤドヌシ」
 うわっ、すごくいい笑顔だけど、このシチュエーション怖いよ。何!?
 皮膚とかお腹が震えると思ったら、それはバクラの大きな笑い声で、バクラは口を大きく開けて嬉しそうに笑っている。
「ヤドヌシ!」
 バクラは僕を抱き上げたまま、笑いながら崖っぷちをくるくる回る。あ、ラピュタにもこんなシーンあったかもとか思い出すと、僕もいつの間にか笑っていて、笑いすぎるうちにハイになってしまい、何で笑っているのか解らなくなる。酸欠だ。涙まで出てきた。
「ヤドヌシ」
 僕を地面に下ろしたバクラは、僕の上に覆い被さるようにキスをする。僕は膝が震えていて、くたんと座ってしまう。
「おぼえてるぜ、ヤドヌシ」
 呆然と見上げる僕を抱き締めて、バクラは笑う。
「わすれてなかったぜ、おれさま」
「あ……」
 僕も思い出す。僕も忘れていなかった。
「やっと、あえた」
「うん、会えた」
 初めて千年リングを手にした日、僕は嬉しくて仕方なかった。リングを高く掲げて、くるくる回る。僕は笑い、僕の側では天音が笑っていた。

 草むらに寝転んで、僕は話をした。あいつがつけた一つ一つの傷の物語。バクラは何故だか懐かしそうな目をして、黙って聞いていた。