ライク・サッド、ライク・サッドネス





 裸のままソファで膝を抱えて俯いていると、目の前に見えるのはバクラの広い背中だけで、そう言えば僕らはあの頃、お互いの背中を見ることなどほとんどなかったのだと思い出した。あいつは目の前で嗤った。あいつは目の前で僕を嘲笑い、乱暴に僕の髪を掴みキスをした。あいつの背中を見たのは、だから、きっとあれ一度きりだ。神の光。腕から流れ出す血が攫い、流れ出してしまいそうな意識を引き留め、見た背中。両手を広げたあいつの後ろ姿。光に呑まれ、失われた背中。
「バクラ」
 僕はソファからバクラの背中にダイヴする。バクラはぐえっとか声を出しながらも軽々と、その広い背中で僕を受け止めて、なんだよなにすんだよと後ろ手に僕を擽る。優しすぎる手。僕はバクラの耳を噛む。
「…もう一回」
「ヤドヌシ、あさから、なんどめだ?」
「数えてないよー」
 声だけが上機嫌だ。感覚が快楽を上滑りして、何かを期待しながら体温を高くする僕の身体はそれっぽいし、僕は多分笑顔だ。もう今更ベッドに行く必要はない。今夜のお風呂の時、ソファのカバーも洗おうと思う。
 爪先から、皮膚の薄い部分を舐められる。バクラの遣り方は一つ一つの触れ方はあたたかいのに、食べられる感じに似ている。舐めるのも、歯を立てるのも、肌を吸うのも、本当に肉とか骨を味わっているみたいで、僕は途中から食べてよ全部食べ尽くしてよと思い、もっと酷く扱ってくれていいとさえ思う。
 思ってしまう。
 バクラと名を呼ぶから、同じ名をしたあいつみたいに、あの頃みたいにしてくれたっていい、と思ってしまう。バクラはあいつとは違うのに。
 バクラは高校に進学した頃からの僕を知らない。覚えていない、と本人は自分の感覚を疑っているけれど、多分、知らないのだ。そこから先はバクラの記憶じゃない。人形も、ジオラマも、バクラは物珍しそうに見た。ダイスロールのテクニックは教えたらすぐに覚えてしまったけれども、でもその手に馴染んだものではなかった。
「ヤドヌシ…」
 上がった息で僕を呼ぶ。そうだ、ここだってあいつとは違うんだと思いながら僕は自分とバクラを繋ぐそこに手を伸ばす。
「な、に、する」
 慌てた声のバクラ。僕は笑ってバクラにキスをねだる。
 このまま食べてくれたらいいのに。
 夕方のお風呂場で見た僕の身体は噛み痕だらけで、窓から射す夕日に湯気がぼんやりした光を孕んで浴室内は一層明るい。バクラは湯船の中の僕を見て、この身体が余計に白く見えることに感激してるっぽく、嬉しそうに僕の身体を撫で、またキスをする。僕はバクラの身体にそれっぽい痕が残っていないのが不満で、何とか噛みつこうとするけど、バクラは腕一本で僕をちょんと押すだけで、はははとどかねーよヤドヌシ、と余裕だ。
 そういうのが心地良くってだらだらしていたせいか僕はのぼせてしまい、バスタオルを何枚も敷いたソファの上に横たえられる。ソファのカバーは脱水も終わってしまい、洗濯機の中で多分しわくちゃだ。バクラは僕に冷たい水を運んできた後、一人でキッチンに立っている。
「料理、できそう?」
「まかせとけ」
 その言葉を不安に思うだけの余裕もなく、僕は気持ち悪い熱にさらわれて、目を瞑る。
 一週間くらい、学校を休んでいる。その間、バクラとずっとだらだらしている。料理をしたり、セックスしたり、食べたり。朝がきたら起きて、夜が来たら眠る。一時だって離れていない。
 でも僕には何かが足りなくて、今日だって朝から食事も摂らずに誘ったり、朝食を食べたらまた誘ったり、勢いに乗ったバクラが僕を離さなかったり、お腹が空いてだらだらしたり、またさっきセックスしたり、お風呂でいちゃついたりで、何かこれハリウッド映画の新婚イチャイチャ描写みたいだよなーと思いながら、何も考えない生活っていうのは実際気持ちがいい。不安を、解決するんじゃなくて、棚上げにしたままのこの状況の心地よさっていうのは、脆いくせに中毒性がある。
 現代日本に住むからには人が一人消えてしまうことより、増えてしまうことが問題が多くて、それも普通に出生届を出せるものならともかく、このあからさまに日本人じゃない大男なんかどう処遇したもんかマジ解んない。しかも顔に傷。絶対にカタギじゃない。まあそうだよ、盗賊だもの。バクラはきっと三千年前のエジプトでだって出生記録があるはずないんだとか考えるうち、僕はクル・エルナという村の名前を思い出して一人で切なくなる。僕が間接的にしか知ることの出来なかった古代の真実。僕らが共有することの出来なかった悲しみ。
 実際問題として、海馬君に恩を売っておくか、弱味でも握っておけば、彼の財力で何とかしちゃったりできたんだろうけどなー、とか考えるけど、こって現実的な方法なんだろうか。起きていることが現実的じゃないから、現実的な方法なんかありはしないと言われればそれまでだ。
 ちなみに現実はちょっと焦げくさい匂いがした。バクラは米を鍋で炊いて、ちょっと焦がした。
「あのね、焼きおにぎりっていうの」
「んあ?」
「今度、作ってあげる」
 僕は結局自分で作った雑炊を食べながら、口いっぱいにご飯を頬張るバクラに笑いかける。
 流石に夜まではやる気力がなくて、僕はバクラが与えてくれるキスや緩慢に撫でる手に身体を委ねたまま眠ろうとする。
「ヤドヌシ」
 そうやって僕を呼ぶ声を子守唄がわりにして。
「ヤドヌシ」
 眠りたい。
「かなしい、のか?」
「……どうして」
 僕の声は少し震えたっぽいけど、ちゃんと笑って聞こえる。僕はバクラの裸の胸に顔を押しつけて、いきなり何言うんだよー変なのーと鼻声を出す。
 すると急に髪を強く掴まれた。
「い、たっ……」
 思わず出た悲鳴に噛みつかれる。キスは、本当に僕の柔らかい皮膚を破るようで、痛い。舌に歯が立てられる。僕の身体は反射的に強張って、手がぎゅっと拳を握ってしまう。
 手が肌を這う。洗いたての下着の隙間に入り込んで触る指は、熱い。何か違う。今までと違う。鼻の奥から湧き上がった熱と記憶がぐるぐると渦を巻き、声を上げたくなるがバクラがそれを許さない。
 広い背中に手を伸ばす。拳を作るだけでは逃がしきれなかった力で、僕は褐色の肌に爪を立てる。
 息苦しくて頭がぼうっとする。視界が霞んでいるのは酸欠のせいだけじゃなくて、涙のせいだった。バクラの手がごしごしと僕の頬を拭った。ベッドを軋ませてバクラは僕を見下ろした。僕はバクラをじっと見た。夜の闇のなかで、じっとその赤い眸を見つめ、赤い眸の上を走る傷を見つめ、そして泣いた。
 バクラが僕を抱き締める。僕はバクラに噛みつく。肩に噛みつく。首に噛みつく。頭をかき抱いて、大声で泣く。
 バクラは少し微笑んで、僕の涙を舐める。

 翌朝、当たり前だけど僕の目は真っ赤で、おそろいだな、とバクラは言うけど、バクラは眸が赤いんで、僕のは白目が充血してるだけだから別にお揃いじゃないやと思うけど、僕は少しおかしくて、少し笑う。
 何年かぶりにアルバムを出した。それは引っ越しの荷物の中でも開けずにクローゼットの奥に仕舞っていた段ボールの中に入っていた。小さい頃の僕の写真を見たバクラはかわいいを連発して、僕は少し照れる。
 高校に進学してからの写真はあまりない。僕は抽斗から、まだアルバムに整理していない写真を取り出す。
「覚えてる?」
 僕たちの前には一枚の写真がある。遊戯君たちと一緒に遊園地に遊びに行った時に撮ったスナップショット。
 バクラは黙り込む。そしてじっと見つめている。写真の真ん中には城之内君に肩を組まれて満面の笑顔を浮かべた遊戯君がいる。
 ファラオの魂の器。
 三千年前の若きファラオは、遊戯君の姿そっくりだったそうだ。
 開け放した窓から風が吹く。今日の風は少し冷たい。
「この部屋にいるのも、飽きたね」
 僕は風に向かって笑う。
「どこか、行こうか」
 バクラが顔を上げる。僕を振り向いて、尋ねる。
「どこに」
 僕は光の中で目を細める。バクラの表情は逆光に塗り潰されて見えない。
「どこがいいかな」
 僕はまた泣いているらしく、バクラの手が伸びてくる。