デイタイム・ウィズ・メモリー

ウィズアウト・セックス





 セックスの後、もそもそと話す。
「千年リングのこと覚えてる?」
「おぼえてる」
「ボクのこと覚えてる?」
「あたりまえだ」
「お前、リングの中にいたの?」
 バクラの声は、この前まで聞いていた声じゃない。あれより低いし、あれより穏やかだ。でも、同じ声だと思う。あいつの声は皮膚の隙間に滑り込むような声だった。この男の声は掌で頭を撫でるように降ってくる。でも、同じ声なんだ。それは、声は耳だけで聴くものではないから。
 胸に顔を押しつけると、実際にあたたかい掌が僕の頭を撫でる。
「ヤドヌシのことは、ずっと、みてたぜ」
 小さな声で、バクラは言った。
「こえは、とどかなかったけどな」
 それを聞いて僕が考え込んでしまったことに、バクラは気づいたのだろうか。バクラの手は優しく僕の頭を撫でる。こんな夜が来るなどと、僕は夢にも思わなかった。それはバクラと僕が、という意味でも。僕自身の人生に、という意味でも。穏やかな時間は、怖い。
 翌朝、僕らは朝からお風呂に入った。スーツケースに入れっぱなしだった着替えや、汗まみれのシーツを洗濯機でごうんごうん回して、その間に二人でお風呂に入る。バクラがじゃれてくるが、僕は怒らない。最後は浴槽の残り湯でバクラの赤い服を洗った。
 それらを全部ベランダに干すとリビングには適度に心地良い影が差して、バクラは気持ちよさそうに寝転ぶ。僕は冷凍庫のミックスベジタブルを炒めて、二人分の朝食を作る。バクラは床の上で胡座をかいたままそれを食べた。また腰にバスタオルを巻いただけの半裸だけど、昨日と比べたら物凄い進化だ。
 腹八分とまではいかないけど、五分弱くらいには落ち着いた胃袋を納得させて、僕は買い物に出ることにする。とにかく、バクラが消えない存在なのならば、着る服が必要だし、食べるものが必要だ。案の定、バクラの胃袋的にミックスベジタブルは全く足しにならなかったらしく「ちがたりねえ」とぼやく。
「色々買ってくるからさ、待っててよ」
「まってやる」
「何それ偉そう」
 僕は笑う。バクラも笑う。バクラが手を振り、僕は玄関から外へ出る。扉を閉める間際の瞬間、手を振りながらリビングにごろんと横になるバクラが見える。
 風は今日も生あたたかい。陽の光ばかりやけに眩しくて、時々、目眩がする。
 ファッションセンターのワゴンセールからサイズの大きいものを見繕い、心持ち肉料理を念頭に置いた買い物をすませて部屋に戻ると、バクラはリビングに俯せになっている。寝ているのかと思ったら、起きていた。
「ただいま」
 返事がないけど、そんなに気にならない。僕は独り言のように続ける。
「疲れたー。今度から買い物二人で行こうか」
 行って、誰かに見られたらどうするのだろう。
「お前、力持ちでしょ。荷物持ってね」
 僕らが明るい日の下を仲良く並んで歩くことなど許されるのだろうか。
 陽光の裏に必ず、これが貼りついている。これのせいで僕は、面倒事の買い物にも軽口の文句一つで出かけることができたのだ。怖い。
「ヤドヌシ」
 バクラが立ち上がって、テーブルを挟んで僕を見る。
「おれは、おぼえて、ないのか?」
「……ん?」
「おまえは、どこまでしっている?」
 それはバクラが最初に投げかけた問いだ。何を知っている? 知っているのか? 全部? 罅割れた空気を纏って、バクラは僕に迫った。
「あー…」
 バクラは口を開いたが、もどかしそうにもぐもぐやって、急に僕の知らない言語で喋り出した。立て板に水。だばだばだばーっと一頻り喋ったバクラは、はあ、と息をつき、一言きく。
「わかるか?」
「…解んない」
 予想していたらしいけど落胆もしたらしいバクラは頭をがしがし掻きながら、ぐてっと床に横になる。こんな時でも僕は、ソファに行けばいいのに、と思ってしまう。
 スーパーの袋からお気に入りを一つ取り出して、僕がソファに横になる。床の上で俯せになっているバクラに顔を近づけるため、僕はソファの上で行儀悪く身体をずり落とす。
「ボクね」
 バクラの頭の上で喋る。
「お前の声、好きだよ」
 バクラは動かない。返事もしない。ただの屍のようだ。僕はシュークリームの包装を破いて、一口囓りつく。市販の品だけど、充分美味しい。
「砂漠の王国の、盗賊王」
 僕はバクラを呼ぶ。赤い眸が僕を見る。
「ボクが知ってるのは精々それくらい」
 床から手が伸びてきて、シュークリームを奪い取る。バクラは一口でそれを口の中に押し込んだ。
「おれは」
「食べてから喋っていいよ」
 バクラは口の中のシュークリームを丸飲みし、真っ直ぐに僕を見た。
「ヤドヌシを、みてきた」
 こんなころから、とバクラは右手の親指と人差し指でスケールを示す。フィギュアより小さいじゃん。でも僕はつっこまず、続きを促す。
「おまえを、しっている」
「うん」
「でも、おれは、わすれた…?」
「…そうかもしれない」
 大邪神ゾーク。闇の力の復活。バクラはこの姿で現れた時から、三千年の復讐のことを口にしない。
「忘れたの?」
「わすれた? おれが?」
「生まれた村のこと」
 あの空気が蘇る。罅割れて、そこからあの世の邪気が染み出すような、あの気配。バクラが僕の脇に腕をつく。僕の喉は無防備だ。でも、僕は次の言葉を紡ぐ。
「死霊の群れと暮らした日々のこと」
 自分の首が柔らかいのかどうかなど知らない。でもバクラの指は強く食い込むだろう。あっという間に、へし折るだろう。
「復讐を誓った日のこと」
 僕は目を瞑る。穏やかな日々は怖い。いつ崩壊するともしれない毎日を綱渡りのように暮らすことは、僕には重荷だ。なら手段は二つに一つで、僕がバクラを殺すのか、それともバクラが僕を殺すのか。
 砂漠の王国の盗賊王。僕が敵うはずがない。
 でもちっとも死ぬ気配はなくて僕は目蓋を開ける。目の前に赤い眸。つり上がり気味のその目がくにゃって感じで歪んで、僕はバクラが笑ったのを知る。
「ばーか」
 ごつ、と音を立てて額同士がぶつかる。
「ころすとでも、おもったのかよ」
 僕は否定しない。ぐ、とぶつかった額に力が加わる。ばーか、とバクラは繰り返す。
「ヤドヌシ、おまえ、ばかだろ」
「お前も馬鹿だよ、バクラ」
 バクラは完全に笑ってはいない歪んだ顔を僕の肩に押しつけた。僕はバクラの食べてしまったシュークリームのことを考える。買い物の袋にあと三個残っている。それをどんな配分で食べようか考える。でもそれを考えるよりもバクラに触りたくて、手を伸ばしてバクラの頭を抱く。

 三度目の正直でなし崩しのセックスを自重して、バクラは僕の買ってきた服を着、僕はまともな食事を作る。米を炊いて、野菜を刻んで、ハンバーグを焼く。積極的にハンバーグを食べるのは、多分、物凄く久しぶりだ。
 昼食は少し遅い時間になった。食べ終わって、洗い物もせずに、ソファの上でだらだらしながら、とりとめもなく喋った。昨日のこと。一昨日のこと。覚えていること。今日の夕飯のこと。これからのことは、まだ話さない。僕らの未来は精々、今日の夕飯止まりだ。
 日が沈む頃、ベランダの洗濯物を取り込む。バクラの赤い服もほとんど水がきれていて、顔を近づけると日向の匂いと、何か正体の掴めない懐かしい匂いがする。
「そんなんより、おれさまに、だきつけ」
「やだ」
 背後からかけられる声は一蹴して、それより洗濯物くらい畳めよ、と指示。露骨に嫌そうな顔をするけど、僕は一昨日からバクラの為に食事を作って、服を買いに行って、買い物して、食事を作って、本当にバクラに尽くしている。
「それに、昨夜は痛かったなー」
 赤い服に埋めていた顔から、目だけ覗かせて訴えると、舌打ちをしながら洗濯物に向かってくれた。結構結構。
 ベッドは狭いけど、一緒に寝る。僕はバクラを抱き締め、呪文のように唱える。
「消えるな」
 バクラは、ヤドヌシ、と答えて返事にする。なし崩しのセックスはしない。ただ固く抱き合って眠る。バクラの腕は固くて枕にするにはごつごつしすぎだけど、僕の不安を拭い去って眠りの底に沈めてくれる。バクラ、と僕は夢の中で名前を呼ぶ。夢の中で僕は泣く。