24アワー・アンハッピー・ピープル





 狭いベッドの中で目が覚めた。朝の匂いと一緒に、いつものベッドとは違う匂いがした。目蓋を開くと、僕の肩を掴んでいるのは褐色の肌の逞しい手で、赤い眸はばっちり覚醒していて、彼は僕を見下ろし一言「にく」と言った。いやいやいや…。
 あれから十八時間経つ。目の前にいるのは幽霊でも、亡霊でもなかった。正午すぎの柔らかな天気雨がやんでもバクラは消えなかった。塩を振っても、お経を唱えても、真言を唱えても、エロイムエッサイムと唱えても消えなかった。十字架を切っても笑って真似するだけで、ニンニクは生で食べた。生だよ、生。歯磨きが習慣づいてないらしいので、取り敢えずマウスウォッシュでうがいをさせたら、凄く不味そうな顔をした。不味そうな顔をしただけで、化学物質でじゅわじゅわ溶けることもない。
 セックスっぽいことが出来ることも昨夜、実証された。
 と言うか…。僕は考える。冷静になって思い出してみると、バクラには酷い目に遭わされた記憶しかないし、いくら二心同体の頃、あのどこだか知れない(あいつは心の部屋と言ったけど)場所で心がどろっどろに溶けるようなことをしていたからって、消えたと思ったはずの存在が目の前に帰って来たせいで抱き締めたのは思わずの行為にしろ、セックスみたいなことに一気に至るのはどうかと思う。
 そもそも僕には目の前のこいつが本当に、あの、バクラなのか解らない。バクラはバクラだ。それは間違いようがない。でも千年リングの中に閉じ込められて僕の身体を好き勝手使っていたのは、ただの、かつて人間だった、エジプトの盗賊王バクラってだけじゃなくて、大邪神ゾークだったのだ。
 僕は時差ボケも直っていないし、昨日は帰国したばかりだっていうのに世にも奇妙な物語・イズ・スーパーリアルを目の前にあれこれあったものだからもう疲れて疲れて、今日一日はぐでーっと寝ていたかったのだけれども、このバクラは朝日が昇ると同時にバチーンと目を覚まして僕を起こし、朝食をせがむ。僕は目の前で使い方の解ったトースターに五枚目の食パン(五つ切り・エジプト出発前に冷凍庫に入れといたやつ)を突っ込んで嬉々として焼き上がりを待つ大男をぼんやり眺めながら甘い牛乳を飲んでいる。糖分が頭に巡り、少しは回るようになった頭でもう一度整理する。
 僕は一人暮らしだ。これで当面の面倒事は取り敢えずクリア。誰かが尋ねて来でもしない限り、この超現実的事象を説明する必要はない。で? 僕は高校生だ。対してこの大男は歳が幾つなのかは知らないけど、確実に保険証も住民登録番号も戸籍もない。で、僕は法的な力を何も持たない十七歳。あんまり考えてなかったけど受験も近い。
 チン! こんがり焼けたトースターが飛び上がり、バクラはそれを口の中に放り込む。マーガリンもジャムも塗ってないけど、美味しいらしい。口の端からパン屑が落ちる。ああ、こいつ裸だ。全裸だよ。
 昨日は結局一歩も外へ出ていない。この部屋に、バクラの着られるような服は一枚もない。ついでに冷蔵庫の中もほとんど空っぽで、福神漬けと、スライスチーズと、ドレッシング類以外は、本当はつけて食べればよかったのにと思うマーガリンとジャム。冷凍庫にならミックスベジタブルがあるから、これで満足してくれればいいけど、そうはならないよ絶対。だって今朝の第一声、肉、だもん…。
 まずは買い物だよなあ。このままじゃ僕が飢え死にしてしまう。それから服。こいつは大人しく留守番とかしてくれるんだろうか。でもどうしたって、こいつを外に出す訳にはいかない。だって、もし人に見られたら。
 見られたら?
 僕はようやく目が覚めた。昨日からの夢見心地から、やっと覚醒した。
 バクラだけ帰ってきたって、ありなの?
 遊戯くんはどうなったの? もう一人の遊戯くん、アテムは?
 僕は立ち上がり、残った牛乳をシンクに捨てる。吐き気さえ込み上げるが、僕は耐える。背後の気配が静まり、視線がそっと背中を撫でる。
「ヤドヌシ?」
 吐くな。僕は奥歯を食い縛り、喉から飛び出しそうな気持ちの悪さを飲み下す。すっと、目の前が暗くなって、体温が下がるのが解る。血が冷たくなる。これはつい昨日も味わった。この瞬間、僕を襲うものの名は、恐怖だ。
「ヤドヌシ…!」
 マグカップが床の上で割れる。昨日からキッチンでは惨劇ばかりが起きる。
 気を失いながらもずっと考え続けているのは、思考が脳だけではなく魂でも行われることの証左なのかもしれない。魂の実存については、僕たちは恐ろしい程に知ったばかりだ。悲しいほどに承知しているのだ、僕たちは。僕は。僕たちは。
 僕は、遊戯君たちと友達なのに。友達だから。だから、こいつは居ては、存在してはいけないと解る。解ってる。解ってた。でも僕は嬉しかったんだろう。ずっと一つの身体の中に寄り添って存在していたあいつが帰ってきたのが嬉しくて、はしゃいでいたんだろう。
 バクラがこの世に存在してはいけないと解ったところで、どうする? 肉体のあるものがそのまま成仏するのだろうか。消滅? 僕が殺すのだろうか。どうやって? デュエル? 俺を殺すならカードで殺せって、ああ、それは海馬君の科白だよ。
 成仏と聞いて思いつくベタな方法でも、化学物質でも、夜が明けてもバクラは消えなかった。でも例えば二十四時間経ったら? 魔法が真夜中十二時で解けるなら、二十四という数字にも何かが宿っている。
 僕は飛び起きる。
 ベッドの上だった。隣には誰もいない。いた気配もない。日はもう高く昇っている。明るい部屋。ひどく静かだ。
「…バクラ…」
 名前が、口をついて出る。その瞬間、自分でも思ってもみなかったし、予測もしていなかったことに涙が溢れ出して、え、僕、泣いてるの? 驚くけれど、顔はちっとも驚いた顔をしないし、かといってくしゃくしゃの泣き顔にもならないし、涙だけがぼろぼろと頬を伝って、首を伝って、体外に放出していい水分の量ってこんなにあるのと思うくらい僕は泣く。
 その時、扉が開いて覗いた顔。
「おきた」
 褐色をした見事に戦闘向きの肉体にバスタオル。風呂上がりみたいな格好のバクラがいた。
 やばい、と思ったが涙は止まらなくて、「あ、バクラ」と間抜けな声を出したら、これがまた涙声で、よけいに涙が盛り上がって、やばいこのままじゃ盛大に泣く、と思ったけど、バクラは嗤わないし、慌てもしない。
「のめ」
 手には牛乳がなみなみと注がれたガラスのコップ。僕はベッドの上でそれを受け取り口をつけるが、飲んだ瞬間からじゃりじゃりしていて、凄く甘い。改めてコップを見ると、溶けきれなかった砂糖がどっさり見える。
「あまいよ」
 僕は泣きながら言う。
「あまいな」
 意味が解ってるのか、バクラが言う。
 甘いけど、飲むと妙に落ち着いたので、半分くらい一気に飲む。残りは砂糖だった。コップを返すと、大きな掌が口元を拭ってくれる。僕は少し笑う。
「髭、出来てた?」
「ヤドヌシ…」
 肩が掴まれる。あれ、この展開は。
「待った!」
 僕は抗う。
「やだ! 僕やだからね、牛乳飲んだ直後のキスなんて絶対やだ!」
「かんけい、ない」
「なくないよ!」
「なくない」
「解ってないで言ってるだろお前!」
 結局押し倒されるけど、唇だけは両手で死守する。バクラはむかっとしたように僕の手を剥がしにかかるけど、途中で僕の気配が変わったのに気づく。
 僕は枕元の時計を見ていた。
 午後の始まり。僕は昨日の昼過ぎ、この部屋に帰ってきた。あれから二十四時間。こいつが、この褐色の肌の大男が、僕の背後に存在したあの時間から、二十四時間。
 風が吹き込む。遠くで雨の音がする? 生ぬるい空気。赤い風? 男の顔は表情をなくして僕を見ている。僕を越して遠くを見ている。光の射す方を見ている。開いた窓から強い風が、風が。
「バクラ!」
 考えてなんかなかった。考える暇なんかなかった。身体中が冷たかった。恐怖。僕は叫ぶ。
「いやだ、行くな! どこにも行くなよ、消えないでよ、バクラ!」
 何叫んでんのという思いは涙と一緒に身体の外に押し流されて、僕はバクラの身体を抱き締めて心から叫ぶ。
「消えるな、消えるな、消えるな…!」
 僕を一人残して消えるな。僕と一緒にいて。僕を連れて行って。
 僕は本気でそう思っている。
 本気でそう思い、そう願い、泣きながらバクラを抱き締めている。
「ヤドヌシ」
 優しい声が僕を呼ぶ。その声が薄れて消えてしまうような気がして、僕はそれを聴いていられないけど聴いていたい。
 両手のひらが、刃物も何も握っていない、大きく広げられた掌が僕を抱く。その掌を熱いと感じるのは僕の身体が恐怖で冷え切っているせいだ。
「ヤドヌシ」
 優しく呼ぶその声に、今なら死んでも怖くない。


 僕らは夕方まで抱き合って眠り、きちんとうがいをしてからキスをした。




「アイデンティフィケイション・ヴォイス」の続き。