アイデンティフィケイション・ヴォイス





 振り返った時、その男は既にいた。僕の背後に存在していた。午後の始まりの光が開け放したばかりの窓から射し込んで、生暖かい風と共に留守中の埃くさい空気を押し流す。僕はシンクに手をついて水を飲んだばかりで、唇の端から流れ落ちた水は慌てたあまりシャツまで濡らしていた。
 光は優しくものの少ない部屋の中を乱反射して、僕には振り向いた先に佇む男の姿が夢のように霞んで見える。赤い風を纏って佇む亡霊。ふわりと腕が持ち上がり、褐色の逞しい五指が自分に向かって伸ばされる。
 ああ、この世の光景じゃない。僕は何を連れてきてしまったのだろうか。
 と思う間に筋肉質なその腕は見た目どおりの強力で僕の襟首を締め上げ、思わず足が浮く。喉が締まる。苦しい。これは亡霊じゃないのか? ここに存在している。何故? 僕は今日、つい数分前ここに帰ってきたばかりだ。しかも地球の裏側から。エジプトから。誰だ、何者だ、この男は汗と土埃の匂いのする腕で僕を締め上げて、赤い眸を暗く淀ませじっと見下ろしている。強盗だの暴漢だのの言葉は酸素の足りない頭に浮かぶはずがなくて、とにかく僕は息苦しさに藻掻き、何でもいいからと手で探る。
 そう、僕が立っているのはキッチンだった。食器カゴには出立前に片づけた洗い物がそのままになっていた。皿も茶碗もコップも、勿論、包丁も。ツーンと塞がれたような耳の外側で皿の割れる派手な音が響き、わずかに腕の力が緩む。僕は右手を大きく振る。
 午後の陽光を受けてそれは光る。僕と男の真ん中で。僕の手は震えていて、男は僕の手首を強く掴んでいる。僕は包丁を放さないのが精一杯だけど、それもちょっと限界で手が震えているのは恐ろしいからではなく、男の手を掴む力が僕の手首を折りそうなほど強くて、骨がみしみし軋むのが解っているからだ。
 でも男からすれば簡単なことだった。男は空いた手で僕から包丁を奪った。その瞬間、心臓から一瞬にして巡ったひやりとした血。僕の身体は傾ぐ。男の赤い眸はそれを的確に追っていて、僕は考えるより、崩れた身体を床に転がす。頭を引く際の引っかかるような抵抗感。床から伝わる衝撃。視界の端で閃く午後の光を、攫う、赤い風。
 這って、立ち上がる。そして逃げ出すけれど、リビングの向こうはベランダ。ここは地上六階のコンクリートの箱。がくん、と首が反る。髪を捕まれた。さっき包丁でぶつ切りにされたそれは、光の筋になって舞う。どん、と背中に衝撃。でも刺されたんじゃない。そのまま、顔から床に倒れる。
 ガッ、と。聞き慣れない硬い音。急激に潰された肺と、打ち付けた顔の痛みに自然、涙が浮かんでくる。でも目のすぐ横に、フローリングに刺さった包丁が見える。肩を強く床に押しつけられている。首だけを巡らせ、僕は見る。
 赤い布に覆われた褐色の肉体。砂まみれの髪。赤い眸の上には傷が。大きな傷が。傷の色は白い。褐色の肌の上で一際目立つ。肌の下の肉の色だ。白い。唇が歪んで、そこから歯が覗く。何かを言っている。音の連なりが、僕には意味を成して聞こえない。
 そして男は大声で笑った。
 物凄く愉快そうな顔だ。何というか近年稀に見る屈託のない、あっけらかんとした笑い方だ。笑わされて可笑しいとか言うより、すごく大らかに楽しそうに笑っている。でも僕は床の上に倒れたままで、こめかみのすぐ側に包丁が刺さっていて、それは午後の光を浴びて鋭く光っている。
 っていうか、誰。マジで。
 っていうか、何。本当に。
 男の笑いはやまなくて、麻痺した頭の隅が凄い肺活量だなあとか呟きを漏らすけど状況はそれどころじゃないので、取り敢えずもういいのかなあ機嫌良さそうだしと思って身体を起こそうとすると、男の笑いはぴたっと止んで、また赤い眸がじっと僕を見下ろす。あー、あれだったのかな、食前の運動的な。この爆笑は。
 でも男はぷすっと息が抜けるみたいに力を抜いて、何かさっきから吃驚しつづけてるんだけど、それでもちょっと虚を突かれるような笑顔を浮かべて僕の上にのしかかり、耳元で「ヤドヌシ」と囁いた。
 じん、と頭の奥が痺れた。聞き覚えのある声じゃない。違うのに、多分、一緒の声だ。声は声帯が生むものじゃない。声は声だけの生き物で、肉体が死んでも生き残った人の頭に取り憑く。そんなのはオカルトというより、感傷的なファンタジーだ。
「ヤ、ド、ヌ、シ?」
 ゆっくりと呼ぶ。たどたどしく、初めてこの言葉を使うように。でも知っているはずだ。この声は知っているはずなんだ、この言葉が誰を指し、誰を呼ぶための名なのか。
 声を出そうとしたけれど、喉がからからに渇いていて、掠れた息しか漏れない。さっき水を飲んだばかりなのに。男の触れた部分からどんどん熱が上がって、水分を蒸発させてしまう。男の乾いた指は僕の髪を梳き、切られた髪がぱらぱらと床に落ちる。
「…お前、なの?」
 掠れた声がようやく口から出る。
「オマエ? ナ?」
「誰なの、お前…」
「オマエ?」
 鸚鵡返しに返すだけの声は楽しそうで、ついでのように耳を囓る。あいつはこんなことをしなかった。あいつの遣り方は知っている、覚えている。嬲って、煽る。身体の奥からねっとりとした熱が生まれ、皮膚と肉の隙間を這う、あの感触。なのに、こんなにじゃれるような仕草。耳を囓って、鸚鵡返しに言葉で遊ぶ。
 でも僕には解っている。これはお前の声だ。僕は知っている。覚えている。確信がある。
「…バクラ……」
 息を吐く。その瞬間、男の纏う空気が変わる。ぴしりと音を立てて罅割れる。
 褐色の指。節くれ立った、逞しい手。それが包丁の柄を握る。僕はそれを見る。刃が持ち上がる。二度も床に刺さったせいか、刃こぼれしている。光はそこで星のように溜まり、滴る。
「…なに、を、しっている?」
 男はゆっくりと、確かめるように口に出す。
「しっている、のか? ぜんぶ?」
 僕は床の上で丸くなる。腕と足を縮めて男の声から自分を守ろうとする。でも男はそれを許さなくて、無理矢理仰向けにされ、かばう腕も退けられる。
「おれ、は」
 男は喉の奥から押し出すように声を出す。乾いた砂を吐き出すように。目が険しくなる。赤い眸がぎらぎらとした光を帯びる。右手には包丁。ここは鉄筋コンクリート建ての六階。ここは日本。僕は今日、エジプトから帰ってきた。
 僕はもう千年リングの所持者じゃないのに。
 遠くで雨の音がする。でもベランダから射す陽は明るい。午後も早い。旅装を解かないままの僕はまだ汗でべたついている。留守の間に埃くさくなった部屋を、生ぬるい風が渡る。カーテンが揺れて、男の顔の上に陰影を作る。
 僕の指先は男の傷の上をなぞる。男は抗わず、僕の指を受け入れる。
「…バクラ」
「バクラ、だ」
 男は包丁を握ったまま僕を抱きしめた。割れた皿たち。傷だらけの床。散らばった僕の髪。スーツケースだけは廊下にちょこんと行儀良く置かれている。赤い風と思った布は、男の纏う衣装は汗と土埃と、強く焼かれた日の匂いがする。僕はそこに顔を埋める。
 ベランダを叩く雨の音。むっとする、水分を含んだ風の匂い。でも空は明るく、午後の光は色褪せない。天気雨の音に包まれて、僕は目を閉じる。
 男はいた。僕が振り返った時には、既にそこに存在していた。今、刃物を握った手で僕を抱き締め、鼓動打つ心臓を僕の胸に押しつけている。それを全て肯定し、証明し、嘘ではないと僕に教えてくれているのは、それよりも宿主と僕を呼ぶバクラの声だ。