AS YOU WISH





 眉間のわずかに上から後頭部に向けて鈍い痺れが広がる。気を失う直前のような、不快な心地よさ。重い頭が下に向けて沈む。僕はゆっくりと目蓋を開く。広がる光景はいつも暗い。くすんだ輪郭のビルの林を、頭を下にゆらゆらと落ちてゆく。どこまでも落ち続けるだけで、地面はなく、爪先の向こうに目を向ければ、枯木のように細くそびえるビルは確かに灰色の雲を串刺しにしている。空はあるらしい。
 根本にいくに従ってビルはマングローブの根のように入り組み、通り過ぎてから見上げれば鉄格子のように空を覆う。落ちゆく頭の先に抵抗のようなものを感じ、僕はくるりとそちらを見た。落ちて行く先に点々と銀色の光が見えた。とても小さな光が、細かに散らばっている。足で宙を蹴ると身体が回転し、爪先から落ちるようになる。少しずつ身体が重くなる。底は近い。
 両手を広げて空気の抵抗を受け、静かに底に足を着く。僕は慎重に着地した。降り立つ少し前から、底に散らばる光の正体が分かったからだ。銀色の刃。鋏だ。裁ち鋏のように大振りで、肉厚の刃。そのほとんどは黒い底を貫き、白々と刃を光らせていた。どこにも明かりなど灯っていないのに、刃は光を互いに反射し合い、その光さえもが貫き、裂くような鋭さを帯びていた。
 心の部屋。僕は周囲を見渡したけど、あいつの姿はない。僕がここに降りてくるということは、大体においてあいつが肉体の支配権を得ているということだ。あいつは僕を奥底に閉じこめて眠らせようとする。いつもなら、それと気づかないくらいあっという間に眠りに落ちて、自分が心の部屋にいるという感覚さえないのに。
 僕は足下の鋏を一本引き抜いた。刺さっていた部分の材質は何だろう。心? 心も血を流すのかなと考えたら、刃の先からぽたぽたと青い雫が落ちた。冷血の色。あいつは僕をここに閉じこめたつもりで、その実自分の心を傷つけてるんだ。僕を動けなくするための無数の刃、僕が逃げるのを遮る歪な鉄格子。でも、それは全部心の形を歪めて作ったものだろう?
 手当たり次第に鋏を引き抜く。傷口から青い血が滲み出す。僕はぐるぐると円を広げてゆくように鋏を抜く。
 足下を濡らすものがあることに気づいた頃、円は吃驚するくらい大きくなっていた。なのに、鋏はまだ数え切れないくらいある。あいつの心ってこんなに広いの?嘘じゃない?と思って二、三歩蹌踉めいた裸足の足が水溜まりを踏んだ。ふくらはぎまで飛沫が散る。血はいつの間にかひたひたと底を満たしている。次に引き抜こうとした鋏も半分くらい浸っている。
「沼みたい」
 思わず呟いた瞬間、僕が最初に降り立った辺りが盛り上がって、あっと言う間のなく青い波が押し寄せる。波は渦を巻き、僕を元の降り立った場所に押し戻そうとする。これは血のはずなのに視界はやたらとよくて、波の中で銀色の鋏が一斉にこちらに押し寄せるのが見えた。
 ああ、死ぬかも。
 僕は目を閉じた。痛いのは嫌だな。目を瞑ったからって痛みが減る訳じゃないし、助からないんだろうけど。
 だけどいつまで経っても痛みは襲ってこなくて、それどころか波の抵抗もなくなり、急に身体が軽くなる。何かの罠かもしれない。僕は薄く目蓋を開く。やっぱりそこは暗くて、まだ心の部屋の風景なんだけど、さっきと様子が違っている。身体はやっぱり軽く浮いていて、ゆっくりと回転している。でも網膜に映るその輪郭は硬質で、はっきりしていた。鋼の黒、立方体を形作る檻。傷つけない代わりにあからさまになったなあ。
 心の部屋って、本当に勝手をし放題だ。僕のイマジネーションはどこまで通用するんだろう。このまま、宇宙遊泳するみたいに眠ることだって出来るけど、だいたい宿主と呼ばれる割に扱いが酷い。せめてベッドで眠りたい。柔らかなものに包まれて眠りたい。目を瞑ってイメージする。ベッド。弾むスプリングと、柔らかな羽毛布。
 僕は再度、目を開けた。そこにはベッドがあった。ベッドだ。ベッドには違いない。ベビーサークルのついた、小さな、赤ん坊用のベッド。
 サークルに手をかけ、溜息をつく。ちょっとこれは。小さすぎる。
 でも、今立っているこの場よりはましか。よじ登ると、ベッドはちょうど膝を抱えて座れる程度の広さだった。
 一息つけたと思ったら、八方から鋼鉄の檻が槍でも刺さるみたいに伸びてきて、ベッドを囲む檻をがっちりブロックする。複雑に入り組んだそれは、立体迷路のようだ。どうやってもここから逃がさないつもりなのか。
 何度目を瞑っても檻は消えなくて、そのうち考えるのにも疲れてきた。
「いい趣味…」
 僕は膝に顔を埋めて、目を瞑る。


「宿主」
 遠くから呼ぶ声がする。
「宿主、何だよこれ。バリケードのつもりかよ、ああ?」
 目が覚めた。声は頭上から聞こえた。幾重にも重なった鉄格子の向こうに、あいつが、バクラが立っている。
「え…?」
 自分から作っておいてその言い種は何?
 僕が首を捻ると、そいつは嗤って手を翳した。
「こんなものがオレ様に通用するかよ」
 檻に絡みついていた鉄格子が消え、そいつは僕の側にふわりと降り立つ。
「言ったろ。こんなちゃちな仕掛けなんざ、盗賊のオレ様にかかりゃイッパツなのさ」
 檻の向こうで、バクラは嗤う。その顔はトラップを解除して宝の前に立ったかのように満足気だ。
「…お前が閉じこめたんだろ」
 一応、言ってみる。まともに答える訳がないのは解ってるけど。
 するとバクラは一瞬、物凄く不快そうに顔を歪めたが、僕の顔を見て勝手に納得したように鼻で笑った。
「気づいてねえのかよ」
「何が…」
 バクラは手の中に鍵を作り出すと、檻を開けた。でも檻の中に入ったら入ったで不愉快だったのか、うぜえな、と呟いて消し去った。檻の破片と渦巻く黒い風に巻き込まれ、闇の向こうに消える。
「何が、気づいてないんだよ」
「ここがお前の夢の中だってことさ、宿主」
「夢……?」
 だって、始まった時からあの不気味さ、不可解さ。僕を閉じこめようとし、傷つけようとする意志。
 でも、そうだ、僕は優しい夢なんか、見たことがないんだ。
「夢、だって?」
「夢だよ。まだ夜も明けちゃいねえぜ」
「じゃあ、何でお前が出てくるんだよ」
 すると、バクラの顔がぱっと愉快そうに晴れて、僕のことを莫迦にしたように嗤う。
「言っただろう、宿主。ここがお前の夢の中なら、答えは一つだぜ?」
 手が伸びてくる。僕はベッドの中で膝を抱えたまま、動けない。バクラの手は僕の顎に優しく触れて、嘲笑う。
「お前が望んだからに決まってるじゃねえか」
 そうだとしても認めたくない。
 僕が絶句していると、バクラは畳みかける。
「望みが叶い、思った通りになったはずだぜ?」
 払い除けようとした手が、逆に掴み取られてしまう。
 バクラの顔はもう息がかかるほど間近にあって、薄笑いの下から冷血が覗いている。白い歯の間から赤い舌が覗く。
「そんなに疑ってくれるなよ。オレ様だって傷つくぜ?」
 僕はきつく目を瞑った。心の部屋より暗い目蓋の闇の中に隠れた。なのにバクラの手の感触は消えなくて、鼻にかかる息は消えなくて、唇を舐められるのがはっきり解る。
「目を、開けろよ」
 唇の隙間から囁かれる。息苦しい。


 目覚めた時、僕はお約束のように枕に顔を埋めていて、本気で窒息死する一歩手前だったのかもしれない。
 枕元の時計は午前四時だった。確かに夜明けにはまだ、もう少し間がある。
 でも、僕は眠れなかった。
 布団にくるまれた肩がやけに寒い。それでも眠れなかった。もし眠ってしまったら、あいつが何をするか
(僕が一体何を望んでいるのか)
解らなかったからだ。