融解前夜 分かち合えるものなんか何もないけど、これでもいいのかもしれない。多分、僕らにはこういうのが丁度よかったんだ。だって、何かあげるものがあったとしたら、僕は際限なく与えてしまったろうし、あいつは際限なく奪っただろう。僕はあいつの中の何か一つでもいいから欲しくて、あいつは僕に自分の中身を見せるのを嫌がっているようだった。でも、あいつは初対面のあの日、うっかり口を滑らせていたんだ。墓を暴く盗賊。そしてあの迷宮でも。盗賊のオレ様。 今、僕の心の中で眠っている。眠ることがあるのだ。白い顔。安らかではない、微かに強張って、目尻や、口元が。床とも言えないひやりと冷たいそこに腹這いになって、眺める。バクラ、と僕の名を騙る見知らぬ邪悪な魂。 僕そっくりの身体一つ。左手の甲を貫いた傷は、だけど僕のものだし、左上腕の傷も僕のものだし、開いたシャツの前から見える五つの傷もやっぱり僕のものだ。全部、借り物のくせに、偉そうに。寝顔に遠くから指を伸ばし、空を弾く。 目蓋が開く。違う眸の色。 「怒った?」 赤い血の色を溶かした眸は、ほんの数秒、僕を睨んで、再び目蓋に隠れる。 僕も目蓋を閉じる。そして何かを思い出そうとする。最初に蘇ってきたのは鼻をくすぐる草の匂いと、露の匂いだ。冷たい露が頬に触れる。草地。夜が明ける前の匂い。天音が生まれる前、一度だけ、父は母と僕をつれて仕事場である海外に行った。あれはどこの国だったろう。湿った土の匂い。草地の向こうには森がある。夜明けは森の向こうからやって来て、朝焼けに燃える空は森と、僕が寝ころぶ草地も焼くようだった。 目蓋を開く。僕らは草地に寝転がっている。心の部屋は便利だ。どんな記憶の中にも飛んでいける。頬や剥き出しの腕に触る草や露は本物で、空は悠久の広さを持っている。鮮やかに燃える東の空。 「お前の目の色って」 僕は独りで呟く。 「火の色なんだね」 バクラは眠っていて、僕の呟きにも、この景色にも気づかない。気づきたくなくて、眠っているのかもしれない。 もしも目覚めたら、バクラはこの景色も欲しがって、自分の記憶にしてしまうのだろうか。僕の記憶はなくなって、空白だけが残るのだろうか。宝物を交換するように、僕の記憶とバクラの記憶をお互いに与えることは出来ないのかな。 きっとバクラは馬鹿らしいと嗤う。傷の舐めあいなんか、ごめんなんだ、あいつは。僕が天音に手紙を書くことだって嫌がる。そんな心の隙間につけいってきたくせに! 少しずつ夜が明ける。僕は身体を起こして東の空を見る。赤く燃える空が強烈な彩度を欠いて、一点が白く極まる。それが朝日だ。空の青は急に表情を変える。あの朝日が昇ってしまったら、あまりの明るさに少し白けた青空が広がる…。 不意に、暗くなった。 蝋燭の火を吹き消すように朝日が消え、森が闇に沈む。でも記憶を移動したんじゃない。手の下にはまだ露に濡れた草の感触がある。 「バクラ」 僕は声をかける。 「バクラ」 「…うるせえ」 あまり声をかけると、もっと機嫌を悪くするだろう。 僕は元のように草地に寝ころび、横目に空を見上げる。真っ暗だ。雲がはびこっている訳じゃないのに、星も月もない。 「何も見えない…」 急に、獣が飛びかかるようにバクラの起きあがる気配がして、何だろうと思う間に上にのしかかられる。 「…バクラ?」 顔が見えない。でもわずかにシルエットが浮かび上がる。背後に、空にかすかに光が見える。星だ。部屋から見上げるような星空じゃない。光の砂をばらまいたような星空。 湿った草の匂いが鼻から消える。肌が乾く。冷たい風が吹いている。 僕の知らない匂い。僕の知らない場所。多分これは、僕の知らない記憶。 「オレ様は盗賊王と呼ばれる存在だったんだぜ」 僕は手を伸ばそうとするが、バクラは強く押さえつける。 「黄金、宝石、それだけじゃねえ、全部全部オレ様のものだったのさ」 街の灯の気配。人のさざめき。歓楽の香り。 身体の下の、砂の感触。 バクラは笑っているみたいだった。 「千年アイテムのことが知りたいか?」 僕はうなずく。 「うん」 「オレ様のこと、知りたいか?」 唇を塞がれる。自分から尋ねておいて、答えを聞くのが怖いんだ。だから、僕は唇が離れると返事をする。 「うん」 はっきりと言う。 「知りたい」 盗賊王。黄金に宝石。それから? 笑うシルエットの向こうの空で、星が流れる。 分かち合ってしまえばおしまいだと、バクラには解っていたし、僕には予感があった。バクラは僕から全部奪った。僕の友達、僕の未来、そして多分世界中の未来。でも与えたのは僕じゃなかった。バクラだった。バクラは僕に全て与えた。 バクラが泣くかわりに星が流れて、僕が泣くかわりに風が鳴った。 「…もう、大好きな世界には戻れないぜ」 たくさんの扉が開いていた。お気に入りのフィギュア。UFOのポスター。生まれた町。育った町。それから童実野町。僕と一緒に戦ってくれた友達。僕を信じてくれた友達。最愛の妹の、面影。 「バクラ」 僕は人差し指を立てる。 「あの星、降らせられる?」 バクラは大仰な仕草で空を薙いだ。 途端に、雨のように幾万の星が僕らの上に降り注いだ。小さく、乾いた金属質の音が砂の上で弾けて、反響して、僕らを包んだ。 降る星明かりの中で、バクラの顔が見えた。 笑っていた。嬉しそうに笑っていた。 もう扉がどこにあるのかも見えなくなった。遠い風の音も聞こえなくなった。反響する星の音の中で、バクラが何か囁く。何と言ったか聞こえなかったけれど、僕は笑ってうなずく。僕は今度こそ腕を伸ばしてバクラを抱きしめる。星が降り止むまで、離さない。 (降り止んでも、離さない) |