ticket for dark black





 黒の染み渡った印画紙。しかし、縁にはかろうじて侵蝕を免れた白が残っている。光が蝕み黒く彩られたそれを獏良は眺め、ふと気づくと自分の部屋にはいなかった。
 獏良は歩いていた。それと知らず、裸足のまま歩を進めていた。そこがどこなのか、獏良には解らなかった。ただ、手の中の写真だけが行き先を示すように、その場で唯一の黒を示していた。
 気づけば奈落を落ちるような階段を下っていた。螺旋を描き、それはどこまでも下へ獏良を招いた。踏むそれははっきりと硬いのに、温度がないせいで、獏良は何度も足を踏み外したような錯覚に陥った。それでも足は止まらなかった。恐怖は不思議と、なかった。
 招かれた階段を下りきるとと暗い部屋が広がっていて、振り返れば戻る階段は消えている。獏良は佇み、上を仰ぐ。夜でさえここまで暗くはない。名前がつく前の古代の黒のようだ。獏良は手を滑らせる。彼の腕は透けるように白いのに、動いた跡の残像さえ残らない。
「ようこそ、ご主人様」
 声がした途端、視界がぐるんと反転する。足下が天となり、髪が逆立つ。
 そいつは短く嗤った。
「ようやく辿り着いたな」
「…お前は誰だ」
 そいつは唇を歪め、目を細める。
 獏良は眦に力を込め、それを睨み返した。
「自己紹介はすませたと思うがなァ」
「本当の姿を現せ」
「何をおっしゃいますやら、宿主様」
 白い腕が伸びる。透けるように、白い。短く切り揃えた爪。左手のひらを貫く傷。それが頬に触れる。ぞっとするほど、冷たい。
「オレがこの姿をしているのが、そんなに気にくわないか?」
 髪を乱暴に掴まれる。引き摺り落とされるかと思った次の瞬間、周りの空気が変わった。黒が凝縮する。壁面が現れる。硬く閉ざされたそれは回転し、獏良の視界はまたぐるりと巡る。二つの頂点。ダイヤの形をした十枚の壁面。
「生憎と、宿主、オレ様の姿はこの姿なのさ」
 髪を強く引き、そいつは歪めた唇を触れさせる。
「同じ髪、同じ眸、鼻の高さもそっくり一緒だ。同じ唇と同じ舌でオレが呪いの言葉を吐くことを嫌悪するか? いいさ、宿主、お前は何も知らないんだ。な、この部屋もお前のために作ってやったんだよ。ぐっすり眠ればいい」
 手が解かれ、髪が一筋二筋と闇にこぼれ落ちる。獏良は相手を睨めつける。すると自分と同じ姿をしたそれは軽く床を蹴り、宙に浮いた。ダイスが回転する。獏良の身体も、自由意志に関係なく転がり、そいつだけが悠々と自由な宙から自分を見下ろす。
「居心地がいいだろう、ここは」
 そいつは、獏良がこの部屋に降り立った時したように、白い手を滑らせた。残像さえ残らない闇。
「ここはお前の心、そしてオレの部屋だ」
 急な速度で手を伸ばし、冷たい手は獏良を捕まえた。
「いつでも下りてくるがいいぜ。悪いようにはしねえよ」
 笑わぬ眸で、口元ばかり歪んで笑みを見せていた。髪を掴む、頭蓋に触れる指は酷く冷たい。誠意のない薄笑いの奥から、憎しみが自分を睨んでいる。
「ここは居心地がいいだろう、宿主」
 手が離れる。獏良の身体はゆっくりと床に落ち、腰が抜けてしまって動けない。自分そっくりの白い姿は残像さえ残さず消えていて、壁面を震わすように嘲笑が降る。
「存分に味わえ。これも全て貴様が与えた孤独だぜ、宿主様よ!」
 嘲笑の消えた後の部屋は、しん、と静まりかえり、もう何千年前の太古から塞がれた石室のように圧倒的な空虚しかなかった。
 黒い壁。獏良は手でなぞる。十面ダイスの部屋。眠りは遠く、目覚めもまた遠い。あれの気配は帰ってこない。存分に味わえとあれは言った。孤独。自分が与えた。違う、孤独は常に与えられてきた。このリングによって。あれの存在によって。自分の周りからは、もう誰もいなくなってしまった。
 視界が圧される。耳が拾う音は自分の心臓の音ではない。高い高い、金属の悲鳴だ。完成させて壊した人形。機械の兵隊。空を飛ぶ円盤。別次元から光の速度を超えて辿り着く。天音、天音、UFOを見に行こう。今度こそ、僕が写真に撮るよ。天音と一緒に記念撮影をしよう。泣かないで、天音。お願い、僕を泣きやませて。五月蠅い。どこまでも高く悲鳴が上がる。アカシックレコードの図書館で絶望したノストラダムスが憂鬱そうに僕を見る。ここでは死ぬことも赦されない。


 あれ、が自分に罰を与えたがっているのだと、気づいたのは目覚めた後だった。手の中には、黒い写真がチケットのように握られていた。それは縁まで感光して、まるで息づくかのように艶やかな黒色をしていた。




一度やりたかった十面ダイスの心の部屋。