エーケル=ハフト




 真夜中の目覚めは不安定な心を揺らす。獏良了はそこが越してきたばかりの自分の部屋ではないということさえ分からず、真っ白な天井に視線を彷徨わせた。三方を囲むカーテン。枕の上に小さな明かりが灯り、遅れて脳に消毒液の匂いが届いた。病院のベッドだとようやく気づいた。
 身体が重い。左手が痛み、痺れる。持ち上げて、頬にあてる。清潔な包帯の感触。血が眠ってしまったかのように、指先は冷たく、手首から先の感覚は曖昧だ。右手で触れると、体温が懐かしく、そう言えば、さっきまでこういう風に触れていた人がいたはずだと思った。
「遊戯だよ」
 声がした。彼はベッドからほどよく離れた場所に椅子を置き、獏良を見ていた。
「遊戯が手を握ってた」
「本田君…」
 枕元の乏しい明かりの下で、本田は自分の左手の甲を指さしてみせた。
「傷、残るかもしれねえってよ」
「うん…」
 獏良は頷く。
「仕方ないよ」
 皆、帰した、と本田は言った。帰った、ではなかった。
「遊戯が、離れなかったんだけどな。じいさんに迎えに来てもらった」
「…悪いことした…」
「んなこと言うなよ」
 本田の手は迷わず獏良の頭に触れ、子供にするように撫でた。
「お前が助けてくれたんだぜ。それにお前も傷ついたじゃねえか」
 全てが暗くなった。そして何もなくなった。あの無を思い出そうとしても、漠然としていて上手くいかない。あるのは記憶の断絶で、胸の奥に焼きついているのは。
 首を巡らせ、獏良は微笑む。
「本田君も疲れただろう?」
「オレはいいんだよ」
「家の人、心配しない?」
「事情は話してあるんだ。いいから心配しないで、寝ろ」
 ぽん、ぽん、と軽く額を叩かれる。
「…そうだね」
 獏良は目を閉じた。目蓋の上にオレンジ色の明かりが灯っているのを感じながら、獏良はじっと動かず、待った。眠りを、ではなかった。
 しばらくすると本田の気配が変わって、やがて聞こえてきた寝息にほっとし、獏良は目蓋を開いた。
 眠れなかった。あの光さえない世界。恐ろしいと言えば恐ろしいのかもしれない。この心は、確実に、あの短い時間、真の闇に包まれた。短い、というのはあくまでこの世界での話であり、あの死の存在は、獏良の記憶の中では永遠と言い換えてもよかった。帰ってなど来られないと覚悟した。だから、最後に、自分と一緒に戦ってくれた友達の顔を見た。だから微笑んだ。
 しかし、胸に焼きついたのは、あの顔だ。あれは、自分と同じ顔をしていた。あの掌からダイスの中に心を移し、そして見た顔。十面ダイスのあの閉鎖されたクリスタルの中で、見たあれは自分と全く同じ姿をしていた。もう一つの存在。闇の存在。邪神ゾークと一心同体と言いながら、しかし、あれの姿は自分そのものだった。
 獏良は小さく震えた。それは骨の髄から凍えるような震えで、表面の粟立ちが収まった後も、尚彼はその冷たさから逃れることが出来ず、凍てついたように見開いた眸で白い天井を見つめた。
 あれは消えたのか。
 あれは自分なのか。
 今、生きている自分は、誰なのか。
 彼は思い出そうとする。今日のゲーム。病院に運ばれた時のこと。更に過去は。両親の顔を。声を。越してきたばかりの日、かかってきた電話。何を話したろう。恐怖に震える夜、自分は何に救いを求めたのか。
 腹の底から喉までを撫で上げるような冷たさ。
 忘却を恐怖するということは、記憶しているということだ、と獏良は言い聞かせた。彼は目蓋を閉じ、目蓋の裏に夜明けを描こうと勤めた。ビル街に昇る朝日。マンションから見た風景。地続きの記憶。
 胸の奥に焼きついたあの姿をかき消す朝日を渇望し、祈った。


 翌日の正午には退院することが出来た。結局本田は一晩中、ついていてくれて獏良をマンションまで送っていった。
 玄関に鍵をおろす。そして獏良は深く息をつき、そのまま蹲った。一人になった途端安心し、また不安に立っていられない。
 未だ見慣れぬ部屋。どこに帰っても、心からの安息がない。ともかくベッドだと思った。顔を上げる。部屋はどこもかしこも、昨夜、ここを飛び出した時のままだ。
 そう、ドアが開いていた。獏良の目は、それをはっきりと捉えた。カーテンに閉ざされた部屋の中で、暗い床の上で、それはわずかに鈍く光っていた。
 放るように靴を脱ぎ、それに近づく。恐る恐る指先で触れたそれは、ただの金細工の骨董品のようだった。冷たい。熱が伝導する。獏良はそれを拾い上げ、まじまじと見つめる。中央のウジャトも、眸を象ってはいるが、何らかの意志や人格を宿しているようには感じられない。
 しかし、その瞬間、恐怖は消えてしまったのだ。
 掌がリングを包み込む。慣れたフォルムは手に馴染み、しっくりと抱きしめられる。
 ああ、死んだし、生きている。
 廊下に腰を下ろし、リングを胸に抱く。
 死んだし、生きてる。
 目蓋の裏で暗黒が解ける。カーテン越しの正午の光が闇と溶け合って、記憶の断絶を溶かす。
 リングを抱き、獏良は廊下に蹲ったまま、夕方まで眠った。




RPG編を読み返しながら。