601ブロックケージの一夜




 ロッカーの「601」に一日、千年リングを閉じこめた。夜、身につけるともう離すまいとばかりに深く胸に刺さって、痛くて悶える。血があっという間にシャツに染みて、鏡の前でホラー映画みたいとかいうのん気そうな感想を浮かべながら、実のところそれほど余裕でもない。リングの中から出てきたそいつは、永遠とか、ずっととか、絶対とか、いつか誰かから言って欲しかった言葉を平気で吐いて僕を泣かせる。僕は恐怖に泣いたことはない。そいつの言葉は耳を塞いでも隙間から滑り込む。頭蓋骨の隙間を埋めるように真っ黒な言葉が優しく脳を撫でて、包んで、いつの間にかここは自分の部屋の601号室ではなくて、千年リングが一日中閉じこめられていたようなロッカーの中のような暗い、深い、閉鎖された立方体で、ダイスのように上下がなく、左右も失っていて、しかしその中でこそ、そいつは自由だと言わんばかりに僕を打つ。僕を殴る。僕を縛る、締め付ける、深く貫いて閉ざしてしまう。
「なあ、永遠の宿主様。どうしてこんなおいたをしたんだ」
 笑わない目で優しい声。立方体が転がり、頭をぶつける。縛られた腕が捩れる。目を開けようとしても目蓋が開かなくて、だけどそいつの姿がはっきり見える。ここは多分、現実世界じゃない。夢か、悪夢。僕の妄想か、前世の記憶。僕は前世で罪人だったのかもしれない。魂の底に残った古い記憶なのかもしれない。牢屋。虐待。痛みも辛さも自分のものではない。するとそいつは怒って、わざわざ縛を解いてまで僕を殴る。痛い程に感覚が薄れる。まだ眠れないのかな。眠る前の夢はいつも混沌としている。
「オレを見ろよ」
 褐色の肌が闇に溶ける。もうその姿は見えない。痛みの余韻が立方体の中でさざ波だって、揺れて、緩やかに静まる。今度こそ目蓋を閉じる。千年リングを外して過ごした一日は、僕にとっても不安定だった。僕は一体いつからこれを身につけているんだろう。そのことを、あいつは知らないんだ。


 立方体が解かれて、どこまでも広がるような闇はこの宿主の中に広がる闇だ。歩けばメビウスのように同じ所に立ち戻る。なんて居心地の良い、この器。果ての見えない薄闇が身体の隅々まで占めている。この闇は仄かに明るい。明るいせいで、余計に暗くて、茫漠としている。殴りすぎて流れ出した血は赤ではなくて見ようによってはピンクの色をしている。心の部屋だから仕方ないとは言えない。こいつの正体は何なのだろうと身体の中に手を突っ込みたくなる。心臓に触りたい。器に執着するのは愚の骨頂だと、あの記憶をぶっ飛ばしたファラオを見ていると思うが、それでも触りたくて仕方なくて、手を伸ばしてしまう。傷口から指を突っ込むとピンク色が指先からこちらを侵蝕して、まさかと思う。黒を流し込むと傷の上でぐちゃぐちゃと混じり合い、ようやく赤になった。
 バクラは血に濡れた指を口につっこみ、しゃぶる。血の味がちゃんとするのに、甘い。味がしない。砂糖のように甘い。舌の上で味が変わる。茫漠とした闇に顔を向けるとメビウスのように巡り巡った自分の顔が遠くにぼんやり見えて、唇がピンク色をしている。血の色が馬鹿らしいほどに明るい。横たわり、傷つき、気絶した宿主は傷口を赤く染めて、すうすうと眠っている。衝動が抑えられず、バクラは傷に歯を立てる。あの、刃を舐めるような、血の味が懐かしい。宿主の身体は柔らかく、今にも骨が折れそうだ。折ってやろうか、折ってやろうか、折ってやろうか、折ってやろうか!
 いつの間にかその身体を抱きしめているようになって、周りの闇から自分とこの身体を守っているようだ。腕の中にきつく抱きしめて、背を丸めて、足を絡ませて、これはオレのものだと。頬をすり合わせると、お互い顔中ピンク色まみれで、本当に腹立たしい。胸の間でリングが軋む。この痛みがなければ忘れてしまいそうだ。何を? 何もかもを。


 洗濯機の中は脱水まで済んでいて、シャツがくしゃくしゃに丸まっている。獏良はそれを取り出して抱きしめる。漂白剤の匂い。裸の身体にリングの冷たさが気持ちよくて、鼻から肺まで満たす匂いもひんやりしていて、朝から気持ちがよくて、洗濯機の前で獏良はシャツを抱きしめたまま動けない。夜が完全に明ける前の闇は蒼くて、どこまでも広がっているようで、深夜の闇より深くて怖いようで好きだと思いながら、シャツというより好きな人を抱きしめているようで、獏良は微笑んでしまう。美しい微笑は秘され、隠され、鏡にさえ映らなかったので、バクラさえ知ることはない。




BGM/P-MODELをメドレーの末「MOMO色トリック」
ピンクは血の色って…。