Do the rest, after dark.




 生首が転がっている夢を、見た。
 白い。血が抜けてしまって。でも今、斬り落としたばかりのよう。
 ヨカナーン。誰の名前だっけ。了は首を傾げ、生首を拾う。
 銀色のおぼんを探さなきゃ。それだけが大切なことは分かっている。
 この白い首は大切なもの。
 ボクだけのもの。
 永遠にボクのもの。
「永遠の」
 手の中で白い首の。唇が、動いて。
「決めたよ」
 何を?

 目が覚めた。

 最後に見た夢はロシアに行った夢で、了は熊の毛皮のコートを着て、狐の毛皮の襟巻きを巻いて、メーテルのような帽子を被って、凍った砂漠までノンストップで走る電車に乗るところだった。タラップに足をかけたつもりが、すとん、と落ちて、身体が震えた。
 ああ、夢か。
 食パンの塊をパン切り包丁でごそごそと削り取って、トースターにかける。間に昨夜のサラダを冷蔵庫から取り出した。後になって気づいたのは、ポットの湯が沸いていないことで、今朝はコーヒーを諦めて牛乳だけを飲む。自家製サンドイッチは美味しい。
 一昨日から学校を休んでいる。美術館で倒れたあの日から、少し体調が悪い。身体に力が入らない。睡眠も足りていなかったようで、寝ても、寝ても、眠い。たっぷり眠ったら眠ったで今度は頭が痛くて、休んでいる間に体調はいっそう悪くなっていっている、ようだ。首のあたりはやたらに軽いんだけど。
 テレビをつけても物足りない。PCを起ち上げて新しいシナリオを書こうとしても興が乗らない。M&Wのカードを目の前に広げて見せると、急に涙が溢れ出して驚いた。
 困ったことに涙は止まらなくて、朝からそのことを思い出したら、また涙が止まらなくて、また寝てしまおうかと思い。
「やめた」
 やめる。
 料理をすることにした。食事は摂らないといけないし、そのための行為なら少しはましに頭が働くような気がしたので。ちなみに、効果てきめん。
 とはいかなかったけれど、まあまあ良くって、タマネギを刻む間に涙は止まり、ニンジンをハート型に切っている内に気分が乗ってきて、ダイス型のジャガイモと一緒に塩胡椒を振ると、すっかり気持ちは落ち着いた。
「おさまるべきところに、おさまったって感じかな」
 独り言を呟く。特に考えてはいない。
 チルドから取り出したビーフは賽の形。美しく立方体に。いつの間に、こんな牛肉の塊を買ったか覚えていないけど。
 静かなキッチンに穏やかな火の音。シチュー鍋の中で材料は溶け合って、やがて火の音と柔らかな合唱をする。じっくり、ことこと、と。
 何だか懐かしい。
「お前の記憶じゃないよね」
 唇が勝手に動く。
「お前、こんな光景、苦しくって見てられないでしょ」
 意味はない言葉なんだろう。脳の表層を言葉だけが滑って、意味を知らないまま舌まで落ちてきたみたいだ。
「ボク、忘れるからね」
 椅子の上で膝を抱える。じっくり、ことこと、と鍋は歌って、灰汁取りがまだのシチューは柔らかく材料の匂いを溶かして、記憶は混濁して、知らない言葉を捨てるように喋って、呟きは正午になろうとするキッチンで、ダイスのように転がって、失われるのだ。
「ボク、何か忘れてるんだよなー…」
 多分、灰汁取りのことだと思う。

 シチューは美味しくて、満腹になった了は眠くなる。
 午後一時すぎ。
 テレビが絶え間なく喋り続ける。

 白い生首をテーブルの上に乗せて、眺める。
 テーブルの上に自分も同じように頭を乗せて、同じ視線の高さで。
「宿主」
 何の話?
「宿主」
 それボクのこと?
 白い唇が動くと、覗く舌だけ赤くて、何だかいやらしいなあ、と了は思う。
 ヨカナーン? そんな名前じゃなかった。
 あ、この生首のこと、ボク、知ってる。
 大切なボクの生首。銀のおぼんがないから、このまま腐れてしまうかもしれない。
 永遠に持っていたいのに。
 凍えた砂漠の闇の下に落ちていってしまったボクの生首。
 唇が動く。驚いてるの?
「忘れる訳ないじゃない」
 テーブルの上に首をごろんと転がしたまま、了は言う。
「ばっかだなあ、お前」

 忘れたふりしてただけさ、と起き抜けに呟いて、何が何だか分からない。
 窓から射す陽はすっかり傾き、肌がオレンジ色に染まっている。中途半端な時間に眠ったから、また今夜は眠れないかもしれない。身体を動かせば、適度に疲れれば、眠くなるかな。面倒くさい。
 シチューは鍋いっぱい残っていて、あと何日これ食べるのかなあ。捨てるのは勿体ないし。
 ポーン。という軽い音。チャイム。誰か来た。
「はーい」
 口の中で返事をして、玄関へ。レンズを覗くと、見知った顔がある。
「…本田くん」
 あ、本田くんに食べていってもらおう。彼、熱血系だから、きっと鍋いっぱいくらい食べてってくれる。ナイスタイミング。
 今開けるよ、と。
 思ったのだけれど。
 手が動かなくて。
 急に身体が冷える。どうしてだろう。何か怖いものを見たみたいだ。
「本田くん…」
 鉄のドアに向かって囁く。
 獏良、とこもった声が聞こえる。ああ、本田くんも呼んでる。
 今開けるよ。今、開けるから。
「ちょっと、待って」
 ちょっと待ってて、すぐだから。
 涙を拭いたら、すぐに開けるから。
 鼻水かんだら、すぐに開けるから。
 泣いてるのに意味はないから。シチューを食べていってほしいから。君はボクの友達だから。せっかく来てくれたから。
 今、忘れるから。
 もうすぐ忘れるから、そしたら開けるから。
「本田くぅん…」
 唐突に鍵が開いて、チェーンをかけたままのドアがガチャンと音を立てる。
 ドアの向こうから心配そうな声が自分の名前を叫ぶ。
「獏良!」
 それボクの名前?
 声を上げて涙が止まらなくて、玄関先で十センチの隙間から慰められながら、日が暮れてゆく。

 泣き疲れて眠りました。




BGM/P-MODELをメドレーの末「Ruktun or die」
サロメ。