溶ける声




 苦しい。
 声が届いた。白い手が伸びる。陶磁のような質感の細い指は探るように床の上を這い回り、すがるものがないと知ると、切り揃えた硬い爪で力なくフローリングを掻いた。白い身体は、まるで物のように床に転がっていた。
 苦しい。
 宿主は蹲り、低く呻き声を上げる。冷や汗が身体の表面をじっとりと濡らし、内臓の奥に澱む熱とは裏腹に、ひどく寒い。
 バクラはすぐ側に佇み、宿主を見下ろした。
 顔色は蒼白で、唇は乾いているのに、荒い呼吸を続ける口の端からは涎が垂れ落ちている。事切れる前の魚のように、口がぱくぱくと開く。
「苦しいよ」
 息が出入りする度に喉が焼ける。宿主は咳き込み、一層身体を丸めた。背を丸め、腕と足を縮こまらせる。胎児そっくりの恰好で宿主は喘ぎ、何度も助けを呼んだ。
「胸が苦しい」
 手がリングの上で拳を作る。
「助けて」
 バクラの顔は曇天のように暗く、また静かだった。
 さあ宿主、誰の名を呼ぶ?
 勿論、誰の名前も呼ばないだろうことは解っている。遊戯も城之内も、本田も、彼の手の中のカードではない。真崎杏子。御伽龍児。一体何の助けになるだろう。両親さえ彼の助けにはならないのだ。唯一、彼の心を救い得る天音は死んだ。
 宿主は、バクラの名を知らない。三千年前、かつて王宮を焼き尽くそうとした盗賊が自分と同じ名を持っていたと。己が名乗り、相手が憎しみを込めて呼ぶ名は決して、借り物の名を穢しているのではない。しかし、そうと伝えることに何の益体があるのか。
 そう考える間にも宿主の苦しみは続いており、漂う視線が助けを探す。
「苦しい」
 胸の上を強く握りしめる。
「助けて」
 誰か助けて、とは言わない。
 誰も助けてくれないことを、宿主も知っている。
「助けて」
 それなのに、救いを求める声は甘く響く。
「助けて、胸が苦しい」
 手がリングを握りしめる。
「苦しいよ」
 バクラは跪く。朦朧とした瞳に自分の姿は映らないし、勿論宿主にこの姿は見えてもいない。
「助けて」
 宿主。バクラは耳元に唇を寄せる。
「助けて」
 オレを呼びな。
「助けて」
 オレ様の名前を呼びな、宿主。
「助けて」
 バクラだ。
「…助けて」
 宿主。オレの宿主。溶け合った記憶のままに惨劇の箱庭を作り続ける。傷だらけの指。心の痛みさえもオレが忘れさせてやろう。だから。
「助け……」
 バクラと。
「助けて…」
 オレ様の名を呼ぶんだ。
「た……」
 震える指が持ち上がる。バクラの耳元を掠め、宙をさ迷う。
「…すけて……あ…」
 焼けた喉がつかえる。泳ぐ視線が一瞬重なる。
「……ク…ラ」
 バクラは目を見開く。
「バ…クラ……助けて、バクラ」
 手がすり抜ける。宿主の手はバクラの胸に向かって伸ばされる。心臓を真っ直ぐに、陶磁のように白い指が貫く。
「バクラ…」
 宿主の目は涙に潤み、全ての輪郭を溶かす。正体の分からない黒い影も、水面に揺らぐ。
「助けて、バクラ」
 甘く響く宿主の声が、すり抜けた指を震わす。
「バクラ、助けて」
 真っ先に自分の名を呼んで。
「バクラ、助けて」
 助けを乞う。
「バクラ…」
 寒気が伝わる。はらわたの底がぐつぐつと気持ち悪い熱に滾る。指の傷が痛む。かつて切り裂いた腕が痛む。胸が痛む。胸が。
「苦しい」
 胸が苦しい。
「バクラ、助けて」
 シャツの胸に血が滲む。リングは胸の上に。宿主の呼吸は浅く、喘ぐ喉がひくひくと引きつる。
「バクラ……!」
 バクラは目を細め、自分の指を宿主の額に触れさせる。すり抜ける指はゆっくりと下におり、それにあわせて宿主の白く薄い目蓋が静かに閉じる。
 リン、とリングが音を立てた。
 汗に濡れたシャツの感触。寒気。身体の奥はじわじわと熱に蝕まれるが、それもやがて血と共に巡る憎悪に溶けて肉体に馴染む。バクラは立ち上がり、苦笑を漏らした。成程、随分とすばらしい気分だ。
 胸が痛む。リングの刺した痕が痛み、宿主の貫いた心臓が痛む。膝に力が入らず、蹌踉めいた身体を支え、テーブルに手を突いた。箱庭の材料に埋もれるように、天音に宛てた手紙が半ばで握り潰されていた。
「…あ……」
 喉が焼けて声が出ない。バクラは水を一杯飲み、喉を潤す。
 外は夕闇が落ち、部屋の隅から世界の昏黒が染み出す。闇の中でバクラは、宿主の痛みに手を這わせる。同じ、陶磁のような質感の指をそっと胸に滑らせ、血の滲む上を強く押す。
「宿主」
 心の部屋の奥底に宿主は眠っている。深い眠りの底に沈む宿主には、彼の声は届かない。
「宿主……」
 目が覚めれば全て忘れている。憎悪に滾る熱も、耐えきれぬ寒気も。胸の痛みも、苦しさも。オレの名を呼んだことさえも。




BGM/「地獄先生」相対性理論
バクラ視点なので「宿主」呼び。