夢幻紳士・幻想篇『木乃伊の恋』でばくばく




「鈴だ。鈴の音だ」
 獏良了は深い霧の中で立ち止まった。どこの森の中か解らない。違う、森の中ではない。両脇に林立するのは灰色のビルだ。しかし深い霧が道の先を覆っている。どこへ足を向けても、似たような景色ばかりが繰り返される。霧の中からは始終、チリ…ン、チリィィ…ン!と鈴の音が、彼を誘うように鳴り続ける。獏良はそっと胸のリングに手を当て、次の角を曲がった。
 一際強くなる鈴の音。リングが震える。獏良は息を飲んだ。深い霧に包まれているのは無限に広がる砂漠であり、すっかり茶けた包帯に身を包んだミイラが、彼を誘うように黄金のパズルを振っている。
「落ち着けよ」
 肩に手が載せられた。
「お前はまた幻を視ているのさ。ほら、誰も居ない」
 振り返ると黒いコートを纏ったバクラがいる。その肩越しに見える景色、確かにそこは砂漠ではない。ビル街でもない。まだ霧は深いが、見慣れた童実野町の景色だ。
「さァ、部屋に戻るぞ」
 バクラが促すが、獏良了は泳ぐ目で霧に包まれた町を見渡し「うん、でも」と言い淀んだ。
「でも……まだ鈴の音は聞こえる」
 チリィ…ン!と。リングが震える訳でもないのに、耳元に鈴が鳴る。
 気づけば日の落ちた自分の部屋に居て、ソファに呆然と腰掛けている。黒いコートのバクラは呆れたように自分を見下ろしている。
「自分の心の部屋を散歩するのにお守りが要るのか?」
 情けない、という顔だが、そんな軽侮よりも、獏良は耳に残る鈴の音に取り憑かれてしまっている。両手で耳を塞ぎ、彼は訴える。
「だって、本当に鈴の音は聞こえたんだ」
 不意に目の焦点が定まった。
「それで、思い出したんだ」
 するとわずかにバクラの表情に興味のようなものが浮かび、彼は少し間を置いて「何を思いだした?」と問う。
 幼い獏良了は砂漠の中の深い谷を、父の背中を追って歩いている。
「お父さん、何処へ行くの?」
「坊や、尾いて来てもこの先に面白い事はないよ」
 父は美術館の仕事に就任する前は、世界各地の古代遺跡で働いていたのだ。
「ねえ、お父さん、宝物を掘りに行くの?」
「…違うよ。ミイラを掘るんだ」
「ミイラ?」
「坊やはミイラを知ってるかい? 昔、エジプトの王様は死んだ後も魂が復活して元の身体に戻れるように、自分の身体を包帯で巻いてお墓の中に入れたんだ。それをミイラと呼ぶんだよ。王様は神様と一緒で、とても大切にされたんだ。ところが、中にはお墓に埋められたまま人に忘れられた王様も居てね。その王様を掘り出してあげようと思ったんだ」
 幼い獏良には父の言うことが半分程度しか理解できない。その全てを解った訳ではないが、忘れられた王様、という言葉が胸に残って、思わず聞き返した。
「掘り出すって……、どうやってミイラの埋まった所を捜すの?」
「ははは」
 父は笑う。まるで父の顔らしからず、笑う。
「鈴の音だよ」
「鈴?」
「ミイラになる王様はたくさんの黄金と一緒にお墓に埋まるんだ。一年に一度、太陽の光がお墓の中まで届いて、部屋の黄金が光る。ところが、さっき言った忘れられた王様は、光の当たらない場所にいるから、仕方なく、自分を囲む黄金をぶつけ合わせて、鈴の音のように、自分の埋まっている場所を教えようとするんだ」
 獏良の幼い瞳にはその様子が映る。包帯だらけの細い手が黄金のリングを手にしている。父の声は続ける。
「私はここに埋まってるぞ……(ちりィィ……ん)」
 ミイラの手が黄金のリングを揺らす。
「ここだぞ…(ちりりィ……ん)」
 父は獏良の両肩を抱いて、笑う。
「早く掘り出してくれ……ってね。はっはっはっ」
 獏良は父の瞳に映るミイラの腕を凝視し、小さな声で呟く。
「嘘だよ。そんなの嘘だ」
「そう思うかい?」
 大きな、砂まみれの手が獏良の両耳に当てられる。
「ほォら、よく耳をすませてごらん。ちりィ……んと、鈴の音がするよ」
 父の瞳にはもうミイラの腕は映っていない。その代わり、獏良の隣で黄金色の何かを揺らす腕がある。父の声だけが聞こえる。
「ちりりィィ……んと、地の底で鈴が鳴っているよ」
 獏良は、幼い獏良の姿を見下ろし、呆然と呟く。
「……そうだ、僕はあの時の父の話を思い出したんだ。街中で鈴の音を聞いたから、だから幻覚が視えたんだ」
 そして今も、獏良に近づくように鈴の音がする。
「でも鈴の音は確かに聴こえた。あれは本当に聴こえた」
 チリィ…ン。
 チリリィ…ン。
「ほら…また鈴の音だ」
 獏良の瞳はきょろりと動き、音を追って窓の外を見る。
「鈴の音が聴こえる。きっとミイラになった王がやって来たんだ。ミイラが歩いてくるんだ」
 その時、窓と反対側の扉が音を立てて開いた。暗い部屋の中に廊下の光が射す。扉を開けた人物は逆光の影に黒く塗りつぶされ、その顔がよく見えない。
 チリィ…ン。鈴の音は扉の向こうから聞こえた。
「どうして…私を見ないの?」
「え?」
 逆光の影が声をかけたのだ。獏良は影に向かって目を凝らす。しかしその顔が見えない。声は切なそうに繰り返す。
「どうして…私を拾い上げてくれないの?」
 黒い影は扉から離れ、獏良に近づく。小さな人影は、しかしソファに腰掛けた獏良を見下ろすようにその脇に佇んだ。
「……私を見て」
 チリィ…ン。
「あ……天音!」
 獏良の白い髪やシャツの上に血が落ちる。
「お兄ちゃんは歩道から私を見ているじゃないの…!」
 噛み締めた白い唇から悲鳴が漏れ出る際で、また肩を掴み呼び寄せる手がある。
「だから、お前はまた幻を視てるんだよ」
 そこは再び、霧に包まれた街。灰色のビル街だ。黒いコートがひるがえり、先を歩く。獏良は躓きながらその後を追う。
「だけどあの小娘の言った事は本当だな」
 歩道が途切れる。横断歩道の前で黒いコートのバクラが立ち止まる。
「お前はここから、あれを見たんだ」
「あ」
 隣に追いついた獏良は耳を塞ぎ、自分の足下を凝視した。
「鈴だ! 鈴の音だ!」
 彼は必死に足下を見詰める。灰色の霧が足下を覆う。
「ほら、やっぱり聞こえる。砂の下でミイラが黄金を鳴らしている」
「違う。砂の下じゃない」
「え?」
 黒い袖は真っ直ぐに横断歩道の中央を指さす。
「ほら、見てみろよ」
 赤いランドセルが転がっている。キーホルダーの鈴が、車が通りすぎる度に震えて、ちりィ…ん、と音を立てる。
「お前はまず最初にあれを見た。だが、脳がそれを拒否した。そして、鈴の音から、オレの心の部屋の中にあるミイラの物語を取り出したのさ。なぜなら、鈴を鳴らしているのがオレ様だからだ。オレ様がお前の目を覆う限り、お前は妹の死を見ずに済む」
 黒い袖が視界を覆い、赤いランドセルは見えなくなる。
 チリィ…ン。
「まったく、最愛の妹から目を背けて、ここに逃げ込んで来るなんて、可愛い宿主様じゃないか」
 違う。黒い袖ではない。ここは、暗い、暗い、バクラの心の部屋の中だ。

 獏良了は目を閉じ、ベッドに横たわる。
 あれからも時々、彼は夢の中で鈴の音を聴く事がある。
 黒いコートの襟が耳元に触れ、低い声が囁く。
「それはきっと、愛しい宿主様に会いたいと、三千年前のリングの持ち主が、本当にお前を訪ねて来たのさ」
 チリィィ……ン!と耳元で鈴の音が。
 しかし、獏良了は決して目を開けない。
 なぜなら、きっと黄金のリングを手にした彼がニヤニヤ笑って自分をからかっているのに違いないからだ。




『夢幻紳士【幻想篇】』 高橋葉介/早川書房
八割程度忠実にノベライゼス