夜光戯曲




 電車に乗った記憶が遠くを流れてゆく。シャワーを浴びながら孤独を享受し、山本は自分を幸福だと思う。血の匂いに隔てられた向こうを電車は走り、地下鉄のぬるい空気の中、隣では沢田がまどろみ、その向こうで獄寺が沢田の手を握っていた。山本はそれを知らない振りをして、沢田のまどろみに侵食されるような重い目蓋を装った。あの時代の幸福とは違うが、今の自分とて決して不幸ではないだろう。冷たい水が、ワインを飲み、肉を食らい、刀を振り回す引き締まった肉体を洗う。既に体温も失われ生の気配をなくした返り血を、排水口へ流す。
 ホテルだった。広い部屋は必要ないと言ったが、ベッドは二つ並んでいた。階も上。カーテンの向こうに夜景の輝くのが解る。非常階段は近い。そうでなくてもボンゴレの人間が屋内をうろついていて、おそらく並みの者なら、ここへは近づけないだろう。山本の安眠のために費やされたもの。バスローブを羽織ると人心地のあたたかさが与えられることの尊さを知る。
 絨毯の上にあぐらをかき、刀を一振り。十年前と変わらぬ、罅一つない美しい姿。わずかに血の曇りが目に付く。そのまま手入れにかかる。
 静かな夜。イタリア、フィレンツェ。古い都市の匂いがホテルの壁にも染みている。自分が生まれ育った場所とは異質なはずなのに、それはひどく山本の肌に馴染む。最初からその中で呼吸をしてきたかのような自然さで、夜の青い空気は鼻腔から肺を満たす。
 刀身が輝きを取り戻す。美しいと言うには物騒で、殺伐と人を寄せ付けぬ光がある。隙あらばこの胸を貫くのも、この刀だろうと思う。己が主であると認められた今でも、慢心は常に死と繋がっている。
 くぐもった悲鳴が聞こえた。じっとしていなければ、このような夜でなければ気付かなかったであろう小さな音だ。屋外、おそらく非常階段。山本は抜き身を持つ手を変える。既に、誰の到来であるかは解っていたが、こう出迎えることこそ、おそらく彼らの間の礼儀なのだった。
 スクアーロは扉を蹴り破って、部屋に侵入した。山本は息をつかず相手の懐に踏み込む。
 火花。凶悪に歪められた顔は二本の刃の向こうにある。
「今日は何が気に入らなかったんだよ、先生」
 何もかもだぁ!という返答と共に弾き飛ばされる。手ひどく、頭を壁にぶつけた。
「相変わらず容赦ねえなあ」
「テメェは相変わらず甘ちゃんだなぁ」
 不愉快を隠さず、スクアーロは言う。
「ちゃんと殺した」
「もっと殺せ」
「殺した数だけ偉くなる訳じゃない」
「偉くなりてぇのか」
 違うだろうがぁ、と再びの斬撃。かわさない。刀で受け止める。
「殺せ。その数だけ生き延びる」
「俺に死んで欲しくないみたいじゃないか、スクアーロ」
 スクアーロの顔は更にみるみる歪んで、一層彼に相応しい表情になる。
 支点を変える。スクアーロの身体が一瞬、不安定に傾ぐ。山本は力任せに相手を床に押し倒す。全て一瞬の出来事だった。スクアーロの表情が彼らしくなく虚を突かれたのも、また一瞬のことだった。
 首の隣に刀を突き立てる。山本は息を詰めたまま短く、ああ、と囁いた。
「髪が」
 目を細め、意識的に美しく笑う。
「切れちまった」
 先に息を吐いたのはスクアーロだった。彼は顔を歪めて笑う。
「それで挑発してるつもりかぁ」
「事実。ありのままの話さ」
 キスにはまだ早い。まだまだ足りないものがある。電車でまどろむ記憶がないかわりに、山本とスクアーロの間に必要なのは、刃だったし、火花だったし、裏側に死を潜ませたそれら全てだった。スクアーロが失った手首に、山本はまだ届かない。長い銀髪を幾筋か傷つける。酷薄な眸の上に自分の姿を映す。まだ、そればかりだ。
 安眠のために費やされたものが無駄になってゆく。ホテル内をうろつく部下たち。用意された部屋にはベッドが二つもあるし、カーテンの向こうには夜景が輝いている。身体を包むバスローブは日向のようにあたたかかったが、おそらく山本はそれを脱ぎ捨てるだろうと感じた。人心地さえ必要なく、今欲しいものは、スクアーロの殺気。抜き身の刃で触れられ、皮膚を裂かれるようなそれだ。
 骨が軋む。次の瞬間を待ち望んでいる。地下鉄の中で手を繋ぐかわりに、刃を交える。それは手を繋ぐより、失われた手首を慈しむより、スクアーロの心臓に触れる最も適切で、望まれた遣り方だった。
 幸福だと思った。それがあまりに哀しかったので、スクアーロの剣は易々と山本の頬を裂いた。
「ああ」
 山本は呟く。
「Happy together ?」





Chronicaの松田さんへ。押し付けのように捧げ物。