Height of spring from Lake District





 ミラノの駅で乗り換えをしようとしたところで、携帯電話にメールが入った。ランボは それを読んだが、すぐに電源を切ってポケットに仕舞った。彼の両手は荷物で塞がってい た。
 大きめのキャンバスは、最初ランボの膝の上に収まっていたが、コモを過ぎた辺りから 座席は空いてしまい、ランボの隣の席を一人分占領した。
 右手に見えるコモ湖は深い青で、春の盛りの緑や花々をその沿岸に映しているのに、き っと芯まで凍えるような冷たい水なのだろうと思う。列車はこのままスイス領近くまで行 く。更に深い山に囲まれたルガーノ湖の畔の町が今回の目的地だった。ボスが頼んだのは、 この絵を町にいる贋作絵師の所に持って行くことだ。依頼は電話で済んでいるという。
「遠い町だろう? これは大切な絵だから、ランボにしか頼めない」
 ボスはそう言った。ランボは一も二もなくそれに頷いた。約束は三つ。絵に傷をつけな いこと。絵を覗かないこと。寄り道をしないこと。
 だからランボはメールを読みはしたが、それに応えることはなかった。リボーンがミラ ノに来ているのは偶然で、それで自分を見かけてメールをくれたのも嬉しかったが、しか しボスの約束を破ることは出来なかった。
 電車を降りると、ひやりとした空気がランボを包み込む。絵を抱え、湖を臨む道を徒歩 で行く。ルガーノ湖の青もまた深い。湖には海の明るさとは違う青が満ちている。以前、 ボスと一緒にこの町を訪れた時は、ランボはまだ子供で、ネッシーと同じ恐竜の生き残り がこの湖にも棲んでいると信じていた。ルガーノ湖を囲む山は、この湖水地方の他の湖に 比べ、険しい。また他の町と違い、観光客が訪れるような場所でもないから、湖畔はひっ そりと静かで、その神秘的な空気から、少年時代の彼は夢を大きくしたのかもしれない。 それを信じなくなったのは、リボーンが鼻で笑ったからだ。この夢を話した時、彼は初対 面の頃のランボにも至らない歳だったのに。
 贋作絵師の住むアパートは、少し坂を上った所にあった。杖をついて出迎えた老人にラ ンボは、不便ではないかと尋ねたが、絵師がこの場所を好んで住んでいることは、窓から の景色を見て、すぐに分かった。
 窓から射す午後の光に照らされて、贋作絵師の老いた手は丁寧に絵を包む布を外す。暗 い絵だった。子供が燭台を持っている。子供と、その燭台を受け取ろうとしている男の顔 が、蝋燭の明かりに照らされ、そこばかり一際明るく見える。
「怖い絵ですね」
「初めて見た時も、同じことを言っていた」
 え、と間抜けな声を出すと贋作絵師は振り向いて、もう忘れたかね。にやりと笑う。そ れから絵を子細に眺め、しばらく時間をもらおう、と言った。
「急ぐ仕事ではないとあいつは言ったが、俺たちの歳を考えればそうも言ってはいられん」
「ボスはまだ、そんな歳じゃない」
「何十年かすれば分かる。肉体は常に死に向かっている」
 ランボは無言で部屋を出ると、坂を駆け下りて花屋に飛び込み、春の花を買い占め、再 び坂を駆け上った。そして老人に山ほどの花を押しつけた。
「俺が絵を取りにくるからな!」
 それだけ言い捨て、今度は絵も、老人の顔も振り返らずまっしぐらに駅まで走った。坂 の終わりに足がもつれ、勢いよく転ぶ。ポケットから飛び出した携帯電話が車道まで転が った。車がクラクションを鳴らすのに謝りながら、それを拾う。
 駅に着き、不意に時間が知りたくなって携帯電話の電源を入れた。着信履歴が三つ入っ ていた。リボーンだった。発信ボタンを押す。
『どうして出なかった』
 開口一番、相手は怒ったようにそう言った。
「仕事で…」
『今、どこだ』
「ミラノに帰るところ」
『駅で待ってるぞ』
「え…? 一時間半もかかる」
『待ってやるから帰ってこい』
 切る間際には、こう念を押した。
『逃げるなよ』
 その一言に、まさか果たし合いかとも思ったが、リボーンはヒットマンとしての自分を 格下扱いしているから、ランボが望んでも真っ当に勝負などしてくれない。ならば、本当 に、ただ待っていてくれるのだろう。
 ルガーノ湖が背後に遠ざかり、左手のコモ湖も夕日に照らされて、山陰の深いところは 既に夜に沈み始めている。徐々に暗くなる窓に自分の横顔が映る。ランボは携帯電話を取 り出し、昼にリボーンからもらったメールを読み返した。液晶画面の、味も素っ気もない 短い文章を眺めている内、顔がほころぶ。
 ミラノに着くと、改札の前にリボーンが立っていた。リボーンは、膝を擦りむき、身体 からは春の花の匂いを漂わせるランボを見て、鼻で笑った。
「ネッシーはいたか?」
「ネス湖には行ってない」
 そう口に出した瞬間、何故かランボは涙がこみ上げ、その場でぼろぼろと泣いた。


 深夜、帰りも寄り道はしていけない、とボスに叱られた。



湖水地方にて