ストラトフォードオンエーボン




 男はイギリスの片田舎に小さな城を買って暮らしていた。
 木枯らしが森を鳴かせる。遠くで寂しげな鳥の声が響き、老いた男はそれらと不釣合いに酷くにこやかに笑った。
「あの子には実に世話になった。そうだ、私以外にも何人の悪魔が儲けさせてもらっただろう」
 男の手は老いて、震えていた。軍医から始まり、彼は欧州でも屈指の名医となった。それも全て「あの子」のお蔭だと言う。
 男はその患者をセリムと呼んだ。
「イタリアのトルコ人という訳だ」
 そもそも、セリムと呼ばれたその男児の誕生に関しては、生き証人というものが存在しなかった。母親に始まり、産婆、祝いの反物を買って帰った父親から祝福を与えるべく訪れた神父まで。徹底的に、一人残らず。彼は、彼の身体に襲いくる病は周囲を巻き込む恐るべき不幸の塊となった。不幸に進んで触れる者はいない。死んだ者はそれで終わりだが、当の本人、生れ落ちたばかりの嬰児には天涯孤独の生き地獄が幕を開けたのである。
 親のないその赤ん坊には、愛情も、同情も、勿論名前さえも与えられなかった。しかしながら彼が生き永らえることが出来たのは、世界中の医者が彼の、病を引き付けるという特別な身体と、その数々の難病を目当てに手を差し伸べ、腕の中に抱いたからである。さもあらん、不幸をその手に笑うのは悪魔と相場が決まっている。

「彼は殺し屋になりましたよ」
 モレッティは言った。
 老人は苦々しく笑った。
「君、この土地を知っているかね」
「ストラトフォード・アポン・エイボン?」
「ストラトフォードオンエーボン」
 ドイツ訛りの発音で老人は繰り返す。
「かのシェイクスピアが生まれ、死んだ土地だ」
 肩が揺れていた。痙攣かと思うと、老人はくすくすと笑っていた。
「私は少年の彼を脅したものだ。君を、あの冷たい床の上をストラトフォードオンエーボンにしなかったのは誰のお蔭か言ってみたまえ」
 その瞬間、老人の顔つき、声音は軍医上がりの威圧的な、若々しいほどの高慢さを蘇らせた。
 モレッティが僅かに息を詰めると、それを見透かすように頬を緩める。
「すると、彼は涙をのんだ。そして我々の実験に一言の文句も返さず、その身を提供した」
 空気にまぎれるように若い男が近づき、銀盆の上に載った注射器を差し出した。老人は自ら、その注射を行った。
 指の震えが止まる。彼はゆっくりとその顔に笑みを浮かべた。
「あの日、この地名を忘れていた自分は迂闊だった」
「…彼と会ったんですね」
「呼び出された私は、ピクニックにでも出かける気軽さで殺し屋と会い…」
 残照に針の先端を光らせ、老人はモレッティに見せつけた。
「この病をいただいた」
 死ななかったのは、この病の、振動症候群のワクチン開発の主幹にいたのが私だったからだ。彼は胸を張った。
「しかし完成はしなかった」
「するさ。こんな身近にもサンプルはある」
 完成させるさ、と老人は呟いた。
 木枯らしと、鳥の声。日が暮れ、謁見をしていたバルコニーに夜の帳が落ちる。
 モレッティは辞すべく立ち上がり、不意に振り返り静かに告げた。
「…彼は医者になりましたよ」
 老人の笑みは凍りつき、それからゆっくりと無表情になった。




またもやインコさんからインスパイア。病弱少年期とか。トルコの血筋とか。
10.16