目の眩むような鮮烈な不幸を。われわれがわれわれたる理由を。





 血の味だ。
 あの夜以来、味わったことのなかった、己の、血の味だ。

          *

 冬の雨が降り続いていた。屋敷は昼でも仄暗い影に包まれていた。夜は真の闇だった。その中に二つの眼が光っていた。その眼は窓を叩く雨を見ていた。闇の向こうからやって来る冷たい矢を、ただただ凝視していた。

 スクアーロは寝台の上にうつ伏せたまま、じっと動かなかった。裸の背に脂汗が滲んでいた。包帯の巻かれた左手が、時折意志とは関係なしにびくりと痙攣した。サイドボードの上、ビンが倒れ、中から白い錠剤が幾つも零れ出していた。ビンの蓋は床に転がっている。が、彼はそれを飲んだ訳ではなかった。コップも水差しも干上がっていた。

 もう数日、この部屋を出なかった。ザンザスに向かい誓いを立てたあの日の調子の良さが嘘のように、左手は疼いた。切り落として日の浅い傷を凍えた空気が刺し、冷たい湿気が締めつける。しかし彼は呻き一つ漏らさなかった。闇の中にはその呼吸さえ聞こえなかった。睨みつける鋭い眼は苦悶の欠片も映さず、ただ闇の雨が鏡のように反射する。

 眠ることだ。痛みも忘れるような深い眠りに。分かっていた。明日は顔を出さねばならない。痛み、窶れ、無様など決して晒されるものではなかった。
 ――ザンザス。
 彼は、誓ったのだ。

 それは遠く響く足音だった。スクアーロはそれがまっすぐこの部屋にやってくるものであると、すぐ気づいた。自分に向けられた怒気であり、殺気だと知っていた。が、寝台の上に伏したまま動かなかった。足音はどんどん近づき、歩調を落とすことなく、初めから決めていたようにドアを蹴破った。鉄製の錠も脆く、部屋は彼の為に開け放たれた。闇の中にその特徴的な傷が、何者も射殺すような眼が浮かび上がった。

 屋根を叩く雨音。遠く、低く響く海鳴り。

 破壊の主は出し抜けに腕を伸ばし、スクアーロの伸び始めた髪を鷲掴みに掴み上げた。ようやくスクアーロの眼は破壊的な闖入者を見上げた。ザンザスの顔は、この世の全てが滅んでも晴れないであろう憂さに満ちていた。

 怒気が死臭が肌を刺す。唇が押し付けられても、スクアーロは引き結んだ唇を開かなかった。ざらついた傷跡が頬に触れる。ザンザスの眼は開いていた。彼は面白くもなさそうにスクアーロの顔をべろりと舐め上げた。舌が眼球に触れても、スクアーロは眼を閉じなかった。左手だけが、疼いた。

 ぶるぶると、切り落とした左手が震える。意志とは関係なく痙攣する。違う、本当はまだ手首の先がついているかのような、指先が残っているかのような。その指が掻く。闇を。ザンザスの唇がまた押し付けられる。スクアーロは眼を瞑る。左手を締め付ける力。ザンザスの手が、傷を握り締めていた。強い力で、ようやく張りかけた肌をも食い破るような強さで。湿った夜の冷気よりも強い力で。それでも尚、スクアーロが唇を引き結んでいると、とうとう肉の潰れる音と熱い痛み。

 血が包帯を濡らすのが分かった。傷が破れ、潰れても、ザンザスは手の力を緩めなかった。否、更に力を込めて左手を握り潰そうとしていた。身体の奥が急な速度でぐらぐらと煮立つ。頭の芯まで痛みに支配される。痙攣する左手。指先が、掻く。強く握り締めるザンザスの手を、掻く。引っ掻き、強く握り締め返す。

 堪えきれずに開いた唇が悲鳴を漏らすことも許さず、ザンザスの舌がねじ込まれた。口付けというより捕食に近いキスを、スクアーロは悲鳴を殺して、受けた。血に濡れた手が頬を包み込む。左手から滴り落ちる血だ。

 血の味だ。

 ザンザスの唇も血に濡れていた。噛み切られた舌がどくどくと脈打つ。溢れ出し、唇からこぼれ落ちる血をザンザスの舌が飲む。その眼は怒気に満ちていた。舌を噛み千切り、殺すことが出来なかったことに対する憤懣が、凶暴な眼の奥で渦巻いていた。

          *

「ザンザス…」
 思い出した。
 血の味だ。思い出した。






 こちらからお借りしたお題。閉鎖されたようです。

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