さあ手に入れた死をどうしますか!





「殺してください。貴方に殺されたい」
 職業的道徳と彼の人生的道徳との間に、その瞬間全くの齟齬は生じなかった。ぴったりと寄り添ったそれに従って、シャマルは女を殺したのである。随分年下の、二十代に足を踏み入れたばかりの女だった。十代の後半を娼婦として過ごした。シャマルはまだ西日の残る時刻に酒場の隅で女から酌をしてもらう、ごく良心的な客だった。

 晴れて自由の身になった女は執拗に、シャマルに縋った。シャマルがグラスの中の酒を見つめ沈黙している間、女は小声で、もう駄目なんです、と囁き続けた。大きく開いた襟ぐりから、若いのに随分垂れてしまった豊満な胸が覗いていた。常のシャマルなら、女の繰言は二の次に、まずその乳房に触れ(あるいは鷲掴みにし)た筈なのだが、その日は西日が暗い雲に隠れ、かと言って雨が降るわけでもない、憂鬱な天気のせいだったのかもしれない。この女が疲れた笑みを浮かべながら酌をしていた時代、天井近くの小さな窓は西日を受けた橙色の燃える板だった。今は、暗い照明の中、その在り処も分からない。黒い壁がのっぺりと広がるばかり。

 眠る前が恐ろしいのだそうだ。翌朝目覚めるが、食事を摂る気がしない。もうレースのほつれを気にしながら下着を洗うこともないし、男に借金をせがむこともない。売春宿を出て得た自由はどれもこれも、女の小さな手には持て余すものだった。
 「この前のカーニバル…怖かった」
 女の目は遠くを見ていた。手は軽く膝の上で拳を作っているが、思い出した恐怖に震える様子もない。神経が切れたように、動かない。
 「仮面の人を見るたびに、お父さんですか?と問いかけたくなりました。私のお父さんを知りませんか、とカーニバルの中で叫びたかった」
 彼女の父親は、彼女を売春宿へ売り飛ばした張本人である。女は青春の訪れる前に、父親に捨てられたのだ。

「俺が、似てるかい?」
 シャマルはぽつりと尋ねた。女は首を横に振った。
「貴方のことは好きです」
 答えにはなっていない。

 女は部屋に帰ろうとせず、シャマルはしこたま酔っていた。二人は寄り添いながらふらふらと橋の上にやって来た。正体をなくした男の肉体は重く、女はそこで膝をついた。風の通らないせいか、町を密閉するように覆う雨雲も手伝ったろう、重労働を終えた女は口を開いて息を吐き、汗の浮いた胸に掌を当てた。シャマルも女の身体に手を伸ばした。全く意識が無いわけではなかった。女は橋の上に崩れ落ちるように座るシャマルを見下ろした。汗を薄っすらと滲ませた女の肉体は、触れると冷たかった。汗や脂肪が熱を奪うのだろう。ふ、ふ、と女は笑い「殺してください、貴方に殺されたい」とシャマルの首にかじりついた。
 職業的道徳も人生における道徳もシャマルを咎めはしなかった。正義の行使とは思わないが、全く当たり前のことを成すために、彼はトライデント・モスキートのカプセルを弾いた。

 一銭にもならぬ殺しを完遂した医者兼殺し屋は、今度こそ正体無く酔いつぶれた。それを発見した殺され屋は橋の上でしゃがみこみ、煙草を一服した。足元には泣きそうな顔で眠る殺し屋と、眠るように殺された若い女が、並んで横たわっていた。煙草はあっという間に燃え尽き、彼はもう一本を新たに取り出し、紫煙を呑んだ。しかし殺され屋は手を伸ばすことは出来なかった。
 三本目が取り出されることはなかった。殺され屋は泣きながら橋を渡った。彼は泣きながら公衆電話にもたれかかり、女に電話をかけた。
 「…モレッティ?」
 ビアンキが訝しげに殺され屋の名を呼んだ。持て余したものを伝える言葉が出ずに、男は電話口で泣きじゃくっていた。






 こちらからお借りしたお題。閉鎖されたようです。

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