死ぬほど星がまたたいている




 大好物の葡萄ではなく、いつも好みはしないポテトチップスの油で指をべとべとにしながらランボは鼻水をすすり上げる。隠しようのない哀しみが身体中に満々と溢れ、指先をピンで突こうものなら破れた皮膚から血のかわりに涙が噴き出すような気がした。あるいは真っ青な血だ。哀しみに犯されて生を亡くした青い血。
 バリバリと音を立てて口一杯に頬張ったポテトチップスを租借し、飲み込んではえずく。脂汗が首筋を伝い、ランボは耐え切れず手を伸ばす。何度もそれを躊躇った電話がベッドの上に鎮座している。ランボはそれを引き摺り下ろすように手にとり、油にぬめる指でダイヤルする。
『はい、楽々軒』
 少女の高い声が、長い長い電話線を越してイタリアの夜の、この狭い部屋に蹲る自分の耳に届いたとき、ランボはもう我慢ができない。両目から涙を溢れさせ、情けない呻き声を受話器に細く響かせ、柔らかな黒髪がべっとりと貼りついた顔をくしゃくしゃに歪めて泣き出す。
『ランボ? あたしバイト中なんだよー。ちょっと泣いてるの? 泣いてるの?』
「イィィィ……」
 イーピンと名前を呼ぶ前にしゃくり上げる。更に涙が溢れ出す。
『泣いてちゃ分かんないよー…』
 聞きなれた声が当惑に揺れ、その向こうからは彼女が勤めるラーメン屋のざわめきが届く。人の気配は、不意にランボを落ち着かせた。
「ボスが…」
『ん?』
 イーピンが受話器を持ち直す気配。ランボは鼻をかみ、しゃっくりに邪魔されながらも声を出す。
「ボスが…、俺に言ったんだ…、これが…、さ…、最後の…、言葉になる……」
『ボヴィーノの…』
 受話器の向こうが静かになる。ランボの目の奥から、また涙が突き上げる。
「オ、オレ…、どうしよう…、生きていけない…、ボス…、ボスがいなきゃ…」
『…気が弱ってるだけかもしれないじゃない』
「慰めなんか聞き飽きたんだ!」
 ランボは激昂した。受話器が震える。強く握り締めすぎたそれは指の油で滑って、ポテトチップスのカスの散らかる床の上に落ちた。それでもランボは止めなかった。
「分かってるだろ! 分かってるよな! オレの十年を知ってるよな、お前、それでも言うのかよ! もうお終いなんだ! 生きて……」
 生きてなんかいけない、そう言うかわりに涙がボロボロとこぼれだし汗と共に薄い胸を伝う。牛柄のシャツが、見る影もない無残さで汗を染ませている。
『ランボ』
 遠くから呼ぶ声がした。
『ランボ』
 床の上の受話器から、少女の細い声が聞こえてきた。ランボは下目遣いにそれを見下ろした。
『今はそっち、夜だっけ。星が見える? 風は吹いてる? 聞いてなくてもいいや。あんたもいつか解るんだと思うから。あのねえ、私の師匠が教えてくれたんだけど、人は、身体も魂も同じものでできてんの。それが集まって人が生まれて、死んじゃえば、それが解けていくだけ。解けちゃったらね、またバラバラに漂うの。漂って、あっちでまた人の一部になったり、花になったり、この世の全てのものの原素に戻るの。…あんた、何もない所になんか、いやしないでしょ。真空の世界とか、虚無の中になんか逃げらんないでしょ。どこまで行っても地面があるよ。地面がなくなったら海があるよ。空はあんたの頭の上から逃げたりしないからね。あたしだって、今、あんたのそばにいるわ』
 少女の声が途切れる。しずかなざわめきの向こうから、少女に仕事に戻るよう怒鳴る声が低く響く。
『切るよ』
 そこでイーピンの声は少し躊躇った。
『…また電話しなよ』
 日本の、明るい昼間の気配は受話器の上に少し漂って消えた。
 ランボの掌が床を撫でた。ポテトチップスのカス、溝にたまった埃、ざらざらとしたものが掌に触れる。ランボは立ち上がり、ヨロヨロとよろめきながら窓際に寄った。すっかり疲れ果てた腕に最後の力を込めて窓を開ける。
 冷たい風が部屋の中に流れ込んできた。風はランボの髪をなぶり、それまで髪を濡らしていた涙が乾く。頬や胸の脂汗がすっと引いてゆく。
 ランボは膝をつく。両腕で窓枠を抱くようにしながら空を仰ぐ。大好きな葡萄の色と同じ紫色の空の果てに金色に輝く星がある。ランボは夜明けを渡る風を胸一杯に吸い込んだ。





2005年、某アンソロ掲示板に投稿したものを発掘。