今宵、貴方に眠らぬ音楽




 不安のない夜。静かな夜。暗く月光の明かりだけをたよりに、視覚ではなく気配で探す。
 彼の指は白い。不思議だ、常に火薬を扱っているのに。
 彼の指は煙草を持つ時より、マイトを扱う時より繊細に意志を持って動く。もしかしたら自分の肌に触れる時よりも自然に。神が教えた動線をなぞるかのように。
 選曲はベタかもしれない。しかし沢田はタイトルを知らない。だからごく単純に、この夜にぴったりの曲だと思う。ベートーヴェン。ピアノソナタ・ナンバー14・インCシャープマイナー。月光。
 十代目に就任して一周年目の夜、いつまでも続く祝いの宴を抜け出して、広い屋敷の中を逃げ回りピアノの下に隠れたところを獄寺に見つかった。獄寺は彼のためだけに弾いてくれた。十年ぶりに触る鍵盤に静かに指を落とし、一曲。あれは後でラジオや、他ファミリーとの付き合いで行ったコンサートでも聴いた曲だ。ラ・カンパネラ。
 二周年の夜には二曲。確かショパン。これは獄寺が教えてくれたのだ。弾いていて好きな曲だと。獄寺がそういう風に感じるものがあるとは知らなかったから、ハッとしたことを覚えている。獄寺は、沢田に対して何もかも晒していると思っていたから。
 あれからまた一年経って、三周年。獄寺が今弾いているのは今宵三曲目。こうやって毎年一曲増やしていくのだろうか。十年、二十年経っても? 一曲どれくらいだっけ? 五分? 十分? この前居眠りしたコンサートの曲は一曲で一時間くらいあった。あれも多分、ベートーヴェンだったはず。四半世紀後には丸一日弾いても足りない。
 来年も弾いて、と言った。あの夜は、それが大したことだと思っていなかった。戦いに明け暮れる日々は十代で終わり、と思っていたのに。今でも獄寺の煙草はそのために火をつけられるし、自分の指先からは硝煙の匂いが消えない。
 でも今は不安もなく、心も穏やかに、目を瞑り、瞼の裏に流れる獄寺の指の軌跡をなぞる。彼がどれだけ部下を持とうとも、彼を独り占めできるのは自分だけだ。彼の手。彼の音楽。誰も知らない彼。
 沢田はゆっくりと瞼を持ち上げる。夜闇の中から反射する月光に浮かび上がる彼の表情が見える。こう言うのはおかしいだろうか。ピアノを弾く彼は汚れない顔をしていると。
 音楽が終わらなければいい。その間、夜は続き続けるだろう。キスもセックスもなしに愛情だけで触れ合う心地よさが魂を満たす。
「このまま眠って」
 沢田は呟いた。
「起きたくない」
 眼差しが柔らかく沢田の上を撫でる。獄寺の眼差しと沢田の眠そうな視線が触れあい、ピアノは続く。月光。月が沈みませんように。せめて眠ってしまうまで。





こっそり『chronica』様の3周年お祝い。