9窓の端にカーテンがぶら下がっている。くすんだ色の木綿の切れ端はまるで不安定に、 そのくせこの部屋に設えられた時から一ミリたりとも動いていないかのように静止してい る。窓の向こうは、ガラスが室内の光を反射して真っ暗だ。ねっとりとした闇を油絵の具 のように幾重にも塗り込めたかのようだ。天井から微かな音がする。ぼんやりとした明か りを放つ電球の、それでも光に引き寄せられて一匹の蛾が奇怪な模様の大きな羽を羽ばた かせている。その下で沢田は独り、ベッドを背に座っていた。何とか引っ掛けた風の服。 投げ出した足の側に木の杖。チ、チ、チ、と金属質の小さな音が響く。沢田の右手は、そ こだけ意志を切り離した機械のように腕時計を弄んでいる。留め金の金細工が、時々存在 を証明するようにちらりと光る。煙草の匂いはまだ残っている。それは沢田の鼻にもまだ 感じられる。しかし、この額を撫でていた山本の手の感触はもう思い出せない。ほんの数 時間前のことである。また十年来側にいる親友のことであった。次にこの紫煙が消えれば 獄寺のことも忘れるか。 小さな音を立てて、腕時計を弄ぶ指が止まった。ゆっくりと、雨粒がガラス窓を伝い落 ちるスピードで目を落とす。この時計を手放せばリボーンとの糸も切れる。たとえイタリ ア中が慌てていても、リボーンだけは落ち着いている。彼だけは自分の居場所を知ってい るはずだった。この金の留め金。リボーンだけは分かっている。 部屋の隅を、壁伝いにゴキブリが這う。蛾の羽音は止まない。山本の落とした煙草とマ ッチが床の上に散らばっている。沢田は細長いそれを一本抓み上げて唇の間に挟んだ。マ ッチを拾う。 一瞬懐かしい匂いが鼻を掠めた。指先でオレンジ色の炎が燃えている。沢田はもう片手 で囲いを作りながら、それをじっと眺めた。大きく膨らみ、ゆらゆらと表面を揺らめかせ る炎。獄寺が使うのはジッポだった。 なだらかに、しかし唐突に、それは指先から離れた。軽く弾かれた炎は小さな尾を引き ながら床に落ちる。 沢田は杖に頼って慎重に壁に近づき、釘にかけられていたコートを羽織った。左足に痛 みはない。ただ感覚もないから、ともすれば置き去りにしてしまいそうだ。が、沢田の顔 は不快そうでも不安そうでもない。彼はベッドまで戻ってくると腕時計を手にとったが、 やはりひょいと無造作に火の中に放った。焼け焦げた床に落下した腕時計が炎の中で音を 立てる。沢田は全く頓着せぬ風にゆっくり歩き出す。 油絵の具を塗り込めたようと思った外は、闇を裂いて冷たい雨が降り出していた。強く はないが、それは確実に一滴一滴沢田の肩や背中を打った。背後でガラスの割れる音が響 き、沢田の足の先に影が生まれた。振り向くと宿の窓を割って炎が黒い空へ手を伸ばして いた。人が、口々に声を上げながら沢田とすれ違う。沢田は一歩一歩、火を噴く建物から 離れてゆく。 町の外れまで来た時は、コートはすっかりそぼ濡れていた。髪がしっとりと頭に張り付 く。幾筋もの冷たい雫が額を、頬を伝う。鼻の先に溜まった大きな滴は、偶に踏み出した 革靴の上に落ちて音を立てる。すっかり艶を失った靴は、もう街灯の明かりも反射しない。 左足は重たく引き摺られるだけだ。道が緩く傾斜を帯びた。不意に一歩が重くなる。しか し沢田はそんな重みなど生まれた時から知っているような顔をして歩き続ける。道の先に 黒く横たわる森がある。森の上に広がる闇は青い。 森の前に来ると冷たい雨をぬって清涼な気配が耳を擽る。沢田は急に自分が独りである ことを知る。誰もいない。彼の側には、彼の周りには誰一人としてその姿も存在もない。 降りかかる冷たい青い闇。目の前に横たわる黒い森。道は森の中へ伸びている。 それはひどく懐かしい光景に見えた。 森の道を沢田は行く。木々は黒々と染まり、その枝葉に遮られた雨が遥か頭上で囁くよ うな音を立てる。他は革靴の濡れた落ち葉を踏む音の他、聞こえるものはない。沢田はま だ歩き続ける。まだ道は続く。 森の道 |