7重く垂れ込める雲のように頭に痛みが立ち込める。山本は顔を洗い、目の前の鏡で己の 顔を見た。お前は疲れていない、と胸の中で囁く。もう一度、両手にすくった水に顔を浸 す。濡れた指で短い黒髪を掻き回し、瞼を伏せて溜息。もう一度鏡を見る。彼はにやりと 笑う。疲れてなぞいるものか。 ベッドの上で毛布に包まった沢田は目を覚まさない。もう昼食時も近かったが、部屋は 空気どころか時間さえも停滞したかのように重くどんよりと暗かった。吸う息ごとに埃が 身体の中に降り積もり、気がつけばその重みに耐えかねて倒れてしまうような、ひどく陰 鬱な空気だった。山本はベッドの端に腰掛けて膝を曲げ、太腿や脹脛をマッサージする。 そうだ、疲れてなぞいるものか。 滑らかに動くようになった両足で空を蹴り、山本は床を踏む。枕元を覗き込むと、無表 情なまま眠り続ける沢田の横顔が暗く照らされている。山本はほんの気紛れでその額を撫 でた。一度撫でると、二度撫でた。気づけば熱心に何度も何度も撫でていた。額から髪の 生え際まで、肌の感触から髪の毛の流れる感触を味わうように、丁寧に撫でつける。それ でも沢田は目を覚まさない。山本は沢田の額に触れていることが絶対唯一の仕事のような 錯覚に囚われる。 山本は拳を握った。手が、ようやく沢田から離れた。山本はゆっくりと拳を退く。溜息 は辛うじて堪えた。彼は沢田に背を向けると、何箇所かポケットをさぐり煙草を探し出し た。いつも吸わぬそれを口にくわえ、マッチの火を近づける。紫煙を吐き出す傍ら、携帯 電話を取り出した。呼び出し音を聞きながら、彼は待つ。 随分待たされた。しかし山本は諦めを知らなかった。繋がった瞬間、無言が聞こえた。 怒気も焦燥も何も感じられない、聞こえるのはただ無言でしかなかった。堪らない、と思 った。 「獄寺」 全力を振り絞るようにして彼は呼んだ。呼んだ瞬間、唇からこぼれた煙草が床に落ちた。 彼はそれを靴底ですり潰す。 相手は応えなかったが、聞こえているのは知っている。奴はもう聞くしかない。今の、 俺のこの電話を聞く以外、証拠も、手段も、力も、あの朝全て失った獄寺は今何も持ち得 ないはずなのだ。残った殻のような身体に自分の言葉がどれだけ卑劣に聞こえるかを山本 は感じた。が、怖じなかった。 「取り引きしようぜ」 息を呑む微かな音が耳に届き、山本は身震いする。しかし声には動揺を現さず時間と場 所を指定する。来れるな、とは尋ねなかった。来るはずだ。来る以外に、獄寺は生きる術 を持たないだろう。 山本は立ち上がり、コートを羽織った。沢田を振り返ったが、その髪に触れる勇気は出 なかった。彼はゆっくりと後ずさる。煙草の煙の残る淀んだ空気の向こうから、鈍く、山 本を見返すものがある。壁に掛けられた木作りの十字架に、山本は僅かに眉を寄せた笑み を返す。ドアの隙間にその光景は狭められ、唐突に闇に消える。 狭い階段を駆け下り外へ出た山本は、空を見上げて大きく息をついた。低く、町を押し 潰そうとするかのような濃い灰色の雲。雨か雪の予兆の匂いが鼻を掠める。山本は唐突に 十三の春を思い出す。灰色の屋上、遥か見下ろす地面。右腕に痛みが蘇った。声にならな い嘆息が落ちる。もし彼がイスカリオテのユダを知っていたなら、これが首をくくりたい 気分だと正に思い知っただろう。 今、彼の腕を掴む者はいない。山本は街道を一人歩き出す。 その頃、沢田は寝返りをうっている。目が開いて、暗い天井を見上げている。時計は、 椅子の上に丁寧に畳まれた服の上。彼は裸の身体一つでベッドの上に横たわり、外を行く、 遠ざかる足音に耳をすませている。紫煙は次第次第に薄れながらベッドの上を漂う。これ が獄寺のものと同じ銘柄の煙草だと、沢田は知っている。 ダブルクロス |