6目の上で個人病院の名を書いた錆びた看板が寒風に吹かれ耳障りな音を立てている。し かし獄寺は医院の前の石段に横たわったまま動けなかった。ようやく指先に感覚が戻り、 無意識に煙草を探す。唇にくわえさせようとしたところで指は震え、煙草はぽとりと地面 に落ちた。彼は溜息をついた。木製のドアの向こうで、こんな田舎での厄介事は御免だと 町医者の警戒している気配がある。頬を寒風が打つ。切れた唇の傷が晒されて凍みるよう に痛んだ。町角に明かりは灯っているが、誰も彼もが警戒し、怯えている。今の自分はそ の誰も襲う牙は持たないというのに。獄寺は笑わない。夕闇のように表情を暗く沈ませ、 決して口にしたことのない一言を吐いた。 「誰か、助けてくれ」 その一言に全ての力を使い果たしたかのように、全身の糸が切れた。 目覚めたのは深夜になってからだった。覚醒した瞬間、消毒薬の匂いがツンと鼻をつい た。重たい瞼をゆっくりと開いた。彼は部屋にせまぜまと並んだ三つの白いベッドの端に 寝かされていた。町医者は獄寺を病人と認めたらしい。上着が脱がされ、釘にかけられて いる。身体はあちこちが痛むが、不快ではなかった。獄寺はここに自分を捨てた実姉に記 憶を巡らせた。 ビアンキはこの町で車を乗り捨てると、獄寺の襟首を掴んで引き摺った。獄寺は息を詰 まらせながらも実姉に尋ねた。雇ったのは誰だ、山本か。彼の姉はひどく冷笑的な態度で 答えようせず、獄寺の身体をこの石段に叩きつけて立ち去った。ご丁寧にも立ち去り際に もう一度ゴーグルを上げてその素顔を晒し、とっくと獄寺の目に焼き付けさせてから。 再び込み上げる嘔吐感を堪え、獄寺は身体を起こす。どれも大した傷ではない。姉に出 会えば倒れるのは当たり前のことで、それとて心因性のものだから恐怖の対象さえ目の前 から消えれば問題はないのだ。 しかし獄寺は身体を起こした格好のまま、それ以上動かなかった。ベッドから降りよう ともしない。手は煙草を探しもしない。薄く開いた唇。夜闇の中に焦点を合わせない双眸。 呆然と、彼はただ座っていた。彼の目の前にはただ一人しかいなかった。自分の手から離 れ、みるみる速さで去っていったあの人しか。この胸を刺し、この腹を抉り、全ての思考 の糸を断ち切ったのは憎々しいビアンキの微笑ではない。朝靄の中、揺れた沢田の。 十代目、と掠れた声が呼ぶ。無意識のうちに唇が動く。 あれからもう一日が経とうとしているのに、焦りさえ湧かない。今朝までは、自分が沢 田の心を読み、沢田を追っていると信じていた。しかし違っていたのだ。自分は単に沢田 の行動パターンに慣れて、偶然追いつくことができただけで、彼の心など解っていなかっ た。あれは。 あの表情はまるで、自分が沢田を裏切ったかのような顔だったではないか。ボンゴレか ら逃げ出そうとしたのは沢田なのに、しかし獄寺が沢田を裏切ったと、あの見開いた目が、 もの言いたげなのを抑えようと震える唇が、強張った頬が、自分の掌の中で拒絶するよう に固く緊張したあの手首が。 あの手の、俺はあの手の甲に口付けしたことさえあるのに。 十代目、と唇が動く。沢田に触れた感触を思い出そうとする。しかし思い出したのは沢 田が自分に触れた感触だった。一度、たった一度だけ、海を渡ってこの国にやって来る前、 日本で、沢田がボンゴレファミリーの十代目ボスになると決意したばかりの頃。獄寺くん と呼ぶ声が聞こえる。頬に触れたその感触はあまりに優しく、その場で獄寺は跪き、誓っ た。魂も全てあなたに捧げると。 それが、全てが頬を流れて消えてゆく。冷たい川の水のように頬の上を流れ去る。 唐突に無表情な電子音が鳴り響いた。獄寺は裂かれた夜の中で戦慄する。枕元で携帯電 話が震えている。 自らの運命を
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